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津地方裁判所 昭和50年(ワ)95号 判決

原告

別紙第一原告目録(一)ないし

(三)記載のとおり

右訴訟代理人

赤塚宋一

右同

中村亀雄

右同

松葉謙三

右同

石坂俊雄

右四名訴訟復代理人

川嶋冨士雄

右同

村田正人

被告

右代表者法務大臣

奥野誠亮

被告

三重県

右代表者知事

田川亮三

右両名指定代理人

山野井勇作

外一四名

主文

一(1)  被告らは、各自別紙第二審原告目録(一)記載の原告らに対し各金三五万円、同目録(二)記載の原告らに対し各金三三万円、同目録(三)記載の原告らに対し各金三二万円、同目録(四)記載の原告らに対し各金三〇万円、同目録(五)記載の原告らに対し各金二三万円並びに同目録(一)、(二)記載の原告らについては各金三〇万円、同目録(三)、(四)記載の原告らについては各金二七万円、同目録(五)記載の原告らについては各金二〇万円に対する昭和四九年七月二五日から、うち同目録(一)及び(三)記載の原告らについては各金五万円、同目録(二)及び(四)、(五)記載の原告らについては各金三万円に対する本判決確定の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  前項の原告らのうち別紙第二原告目録(二)記載の原告らを除く原告らのその余の請求はいずれもこれを棄却する。

二別紙第二原告目録ないし(八)記載の原告らの請求はいずれもこれを棄却する。

三訴訟費用は、別紙第二原告目録(二)記載の原告らと被告らとの間に生じたものについては被告らの負担とし、同目録(一)及び(三)ないし(五)記載の原告らと被告らとの間に生じたものについてはこれを五分し、その三を同原告らの、その余を被告らの各負担とし、同目録(六)ないし(八)記載の原告らと被告らとの間に生じたものについては同原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自

(一) 別紙第一原告目録(一)記載の原告ら(但し、同目録中22番原告宮路忠己、130番同手塚正義及び146番同高須しづえは除く。)に対し、各金一一〇万円及びこれらに対する昭和四九年七月二五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を

(二) 右同目録(二)記載の原告ら並びに右同目録(一)・22番原告宮路忠己、130番同手塚正義及び146番同高須しづえに対し、各金七七万円及びこれらに対する右同日から支払済みに至るまで右同割合による金員を

(三) 右同目録(三)記載の原告らに対し、各金三三万円及びこれらに対する右同日から支払済みに至るまで右同割合による金員を

それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  本件水害の発生について

原告らは昭和四九年七月当時、それぞれ津市内の一身田地区、栗真地区、白塚地区、江戸橋地区等に居住していたが、同月二四日午後一時から翌二五日午前一〇時までの間、雷雨性の豪雨に見舞われ、別紙浸水位及び浸水時間一覧表(以下、一覧表という。)(一)ないし(三)記載のとおりそれぞれ居住家屋が浸水の被害(以下、本件水害という。)を受けた。〈中略〉

2  志登茂川の概況

(一) 志登茂川の流域等について〈省略〉

(二) 志登茂川の管理について〈省略〉

(三) 志登茂川氾濫の歴史的経緯等について

志登茂川の歴史は、志登茂川氾濫の歴史であるといえる。すなわち、志登茂川本川の上・中流急勾配河道を流下した洪水は、河床勾配が急減する移化帯――国鉄紀勢本線鉄橋付近――に至つて、洪水流量に比べて圧倒的に小さな河道に受容されることができず、たちまちにして両岸に溢水し、下流の沖積平坦地帯を冠水した。志登茂川の氾濫は、水系形成以来、年中行事として繰り返されてきたものであつて、主として右岸に溢水した洪水は、南東に流れて沖積平坦地帯を経て、一身田平野地区に集まつて伊勢湾に流出した。下流沖積地帯には、すでに、六、七世紀から条理区画を伴つた稲作水田が開発されたが、水稲は、一日位の冠水によつては、さほどの被害をこうむることはないので、氾濫を防止するための河道の改修は行われることなく、志登茂川は、近代に至るまで自然河川に終始したということができる。

右のとおり、志登茂川は昔から氾濫していたが、従来、本川の右岸においては、氾濫水は一身田町市街地北部の水田を冠水し、一部は平野井堰の直上流の越流堤から再流入し、大部分は市街地北東に位置する水田を通過して一身田平野地区の方へ流下し、一身田の旧市街地へは滅多に入ることはなかつた。

しかしながら、第二次大戦後は氾濫水が頻繁に旧市街地に流入し、一身田町においては、昭和三四年から同四九年までの一六年間に、次表のとおり台風及び前線性降雨によつて九回も家屋浸水の被害(うち六回は床上浸水をともない、うち三回は床下浸水のみであつた。)を受けるに至つた。〈中略〉

この原因は、戦中から戦後にかけて志登茂川がその上流ばかりでなく、下流までも開発されたからである。特に、昭和二九年ころ県道津・関線が敷設され、同三七年ころ一身田市街地北東部と志登茂川との間の水田地帯に県営一身田団地が造成されると、これによりそれまで溢水流が流下していた箇所を塞いでしまい、しかも、そのころから宅地造成が盛んに行われるようになつて、それまで溢水流を貯水し、洪水の調節機能を果して水害を抑制していた水田、畑地が減少したこともあつて、それまでの溢水流の流れの向きが変化し、溢水流が拡散するようになつて、一身田市街地全体に水害被害をもたらすようになつたのである。

3  本件水害における志登茂川の溢水の状況

(一) 志登茂川本川右岸側の溢水の状況

志登茂川右岸側の溢水は、昭和四九年七月二五日(以下、3項中、月日のみを記した場合は、昭和四九年度を示す。)午前五、六時ころ、まず今井橋から上流の無堤地帯から始まり、その後上流に及んでいき(国鉄紀勢本線の鉄橋付近から今井井堰までの間で一面に溢水したものと推定される。右溢水は、国鉄紀勢本線鉄橋から川北橋上流あたりまでは、河岸段丘をなしている低い水田を川に沿つて流れ、右橋から下流においては、低い水田が南東方向に広がつているため、水は水田一面に一身田方向に向けて流れだし、一つの流れは東西は今井橋から平野井堰、南北は志登茂川から県道津・関線間に存在する広さ約三八ヘクタールの水田に湛水し(右水田の湛水量は、湛水深約一mとすれば約三〇万m3を下らない。)、その後、湛水した水は同日午前七時二五ないし三〇分ごろ県道津・関線の北側路肩に設置されている、平均約四四cmの高さの遮水壁を越え、街路を主流路として一身田町市街地区へと流入し、一身田平野地区方面に流下していつた。また、志登茂川を溢水した他の流れは高田高校から西側において県道津・関線を越流し、高田本山専修寺の西側を堀に沿つて南方に流下し、その後溢水流の主流は安楽橋付近で東に転じ、向拝前通りから栄町通り方面と東流して一身田町市街地中心部へ流入し、更に一身田平野地区へ流下していつた。

つまり、国鉄紀勢本線鉄橋〜今井橋間で志登茂川右岸から溢水した水は津市大里窪田町を通り、そこから一部は県道津・関線と志登茂川にはさまれた水田に流れ、他の一部は高田高校西側の県道津・関線を越えて高田本山の西の桜町方向へと流れ、大里窪田町から水田に入つた水は前記遮水壁を越流して、順次北の町、東町、昭和通り、一身田団地を通り栄町から一身田平野へと流下し、そしてまた、他の流れは、常盤橋、二百石橋方向へと一面に流れた。

また、桜町方向へと流れていつた水の主流は安楽橋付近から東に進路を変え、高田本山専修寺前の通りを宮之前、栄町と通り、一身田平野へと流下していつた。そして、安楽橋から南に流下した水は、西の町から二手に分かれ、一方は向拝前から仲之町に行き、そこから更に常盤橋方面と緑橋方向に分かれて流れて行つた。なお、西の町からのもう一方の流れは、南町を経て緑橋へと向つた。

右のようにして流下してきた水は、緑橋付近で毛無川を越え、一方は緑町、一身田大古曽から一身田中野に流下し、他は緑町から稲荷町、橋向常磐町を通り一身田中野へと流下した。また、常盤橋付近で毛無川を越えた水の一部は、大古曽を通り一身田中野へ行き、他は常盤町、二百石町を通り一身田中野へと流下した。

(二) 志登茂川本川左岸側の溢水の状況

七月二五日、早朝、志登茂川左側内水域をなす横川が溢水し、その後、午前六時ころ志登茂川本川の今井橋上流付近から溢水し、その水が一身田豊野地内を経て満水となつた横川を越え、栗真地区、白塚地区、江戸橋地区に流下して行つた。

また志登茂川は平野井堰上流約五〇m付近において幅7.5m、高さ1.2m、更にその上流約30m付近において幅14.3m、高さ1.2mにわたつて、各左岸堤防が決壊し、そこからの溢水が横川を越えて栗真地区、白塚地区、江戸橋地区に浸水した。

このため、各地区においては、所によつては三〇時間もの長時間にわたり浸水被害を受けた。

(三) 一身田地区、栗真地区、白塚地区の各被害について

一身田地区に溢水が流入し、家屋に浸水し始めたのは、七月二五日午前七時二〇分ころであり、その水がピークに達するまでの時間は七ないし一〇分位の短時間であつた。そして、右浸水により一身田地区は、床上浸水一三〇六戸、床下浸水六二五戸、最高水位床上一二〇cmという被害を受けたが、この水が退水したのは同日午後一〇時ころであつた。

また栗真地区では床上浸水七四九戸、床下浸水二九九戸、最高浸水位約一mという被害を、白塚地区では床上浸水七二六戸、床下浸水九五八戸の被害を受けた。

4  志登茂川の設置・管理の瑕疵について

(一) 河川の設置・管理の瑕疵について

国家賠償法二条一項の「設置又は管理に瑕疵」があるか否かについては、客観的な基準に照らして、営造物が通常有すべき性状や設備を具有しているか否かを判断すべきであり、これを河川についていうならば、およそ河川が通常有すべき安全性を備えているというためには、予想しうる降雨量を安全に流下させうる構造、機能を備えていなければならず、河川行政の基本となる河川法も計画高水流量を基準として、河川が計画高水流量の水を安全に流下させるに十分な機能、構造を有すべきことを予定し、かつ要求している(同法一六条、同法施行令一〇条)のであり、これらを欠く河川は通常有すべき安全性を備えていないというべきである。

(二) 志登茂川の設置・管理の瑕疵

(1) 志登茂川本川を三区間に分け、河川起点から三重大学附属農場前までを上流部、三重大学附属農場前から古川橋までを中流部、古川橋から河口までを下流部と区分すると、上流部は、河道延長約二Km、勾配は1/180であり、中流部は、河道延長約六Kmで、勾配は約1/170である。そして、下流部は河道延長約7.5Km、勾配は平野井堰まで1/500、これより下流は1/1000となつており、上・中流部は勾配が急であるが、下流部に至つて急に緩やかとなり、特に、川北橋から平野井堰までの約1.5Kmは、河床勾配が急減する移化帯であり、洪水の溢流氾濫が発生しやすい区間であつて、古くから、この区画において志登茂川は溢水してきた。

(2) 志登茂川本川の今井、平野両井堰地点における流下能力は、五〇m3/sであるが、志登茂川本川の右各地点における流出係数を0.6、流域面積を23.59km2にとれば、その高水流量は、二年に一回の確率で一一八m3/s以上、五年に一回の割合で一四九m3/s、一〇年に一回の確率で一六五m3/s、二〇年に一回の確率で二〇四m3/sになり、他の計算によつても、二年確率で一二九m3/s、五年確率で一七七m3/s、三〇年確率で二八五m3/s、一〇〇年確率で四〇七m3/sの高水流量が出現する。

(3) そして、志登茂川は、今井橋上流の無堤地帯において高水流量が五〇m3/s以上になると溢水するのであるが、この高水流量が一〇二m3/sになると一身田地区において床下浸水し、一一四m3/s位になると床上浸水(これらの生起確率は二年に一回程度である。)し、一三四m3/sになると床上浸水率が二五パーセント(この確率は五年に一回程度である。)となり、二〇八m3/sになると床上浸水率は五〇パーセント(この確率は三〇年に一回程度である。)にもなるのである。

(4) また被告らが昭和四七年に確定した志登茂川改修全体計画によると、計画高水流量は三〇〇m3/sである。

(5) 従つて、志登茂川においては、少なくとも高水流量三〇〇m3/sの水を安全に流下させるだけの構造、機能を備えていなければならず、これは本件水害当時も同様である。

ところが、前記のとおり、本件水害当時、国鉄紀勢本線鉄橋付近から平野井堰に至る区間(以下、本件瑕疵区間という。)における洪水疎通能力は、今井井堰及び平野井堰において各五〇m3/sであり今井井堰上流においても同じく五〇m3/sしかなく、右三〇〇m3/sを大きく下回つていたことはもとより、前記のとおり二〇年に一度程度の雨量(到達時間内降雨量)による本件水害時の洪水量一九〇ないし二四一m3/sを安全に流下させることもできなかつたのである。

(三) 志登茂川改修の懈怠

前記のとおり、志登茂川の本件瑕疵区間は、すでに昭和三六年から旧河川法準用河川として、被告らの管理下におけれていたのであつて、被告らが右区間を改修することは、同年以降はいつでも可能であつたというべきである。しかも、昭和三四年には八月及び九月の二度にわたつて本件瑕疵区間からの溢水が一身田町に床上浸水被害をもたらし、更に、同三六年から三八年にかけては被告県自ら一身田団地を造成して、氾濫水の退路を絶つて浸水被害を激化する途をひらいたのであるから、一層河川改修の必要性は高まつたというべく、被告国及び同県としては、同三六年ないし三八年ころには、本件瑕疵区間の河川改修に着手すべきであつたのである。

まして、昭和四〇年新河川法が施行され法令上の管理責任とその権限が明確となり、管理義務内容も明確かつ濃密化したのであるから、一身田地区に水害が多発していたことや、このときすでに氾濫水の流下を妨げる県道津・関線や一身田団地が建設されていたことに鑑みれば、河川改修につき、遅くとも被告国及び同県としては同四〇年の新河川法施行後、直ちに志登茂川の基準点たるべき今井橋地点での計画高水流量の策定など志登茂川改修計画を立案し、かつ、これに基づいて本件瑕疵区間の河道拡幅工事に着手し、本件水害時までには右区間の改修工事を完成していなければならなかつたものである。

しかるに、被告らは新河川法施行後も長期にわたつて右改修計画の策定を放置し、昭和四六年の二度の水害の後、はじめてこれにかえて全体計画を策定(同四七年六月ころ確定)し、前記のとおり、計画高水流量を三〇〇m3/sとしたにとどまり、被告らが同四七年以前においてなしたことといえば、わずかに、河口部から平野井堰の区間についての同三四年度から三八年度までの高潮対策事業としての工事、今井井堰から国鉄紀勢本線鉄橋までの区間についての同三七年度から四〇年度にかけての災害関連事業としての工事と平野井堰から今井井堰までの区間についての同四〇年度から四三年度にかけての災害関連事業としてのみである(これらの工事はいずれも堤防低位部のかさ上げ、堤体保護の護岸工事等の工事にとどまり、河道断面の拡幅等を目的とするものでなかつた。)。

以上のように志登茂川の本件瑕疵区間は、本件水害時まで河道拡幅工事がなされないまま放置され、今井井堰地点の洪水疎通能力は五〇m3/sしかなく、本件水害時の洪水量一九〇ないし二四一m3/sをはるかに下回つていたため、本件水害時において今井橋上流地帯から大量の水が溢水したのである。

ところで、およそ河川が少くとも過去の降雨から予想しうる高水流量を安全に流下させるだけの構造、機能を有していなければ、通常有すべき安全性を備えているとはいえないことは前記のとおりである。また、被告らの昭和四七年に確定した全体計画による高水流量の数値でも三〇〇m3/sである。してみると、志登茂川の五〇m3/sの通水能力は、過去の降雨から予想し得る高水流量や計画高水流量の三〇〇m3/sをはるかに下回り、それゆえに、志登茂川は、その設置・管理に著しい瑕疵があつたことは明らかである。〈中略〉

5  共同不法行為(仮定的主張)

(一) 仮に本件水害による浸水被害が、志登茂川の本件瑕疵区間からの溢水だけではなく、志登茂川の支川である毛無川からの溢水が寄与して生じたものだとしても、志登茂川の管理責任を負う被告国及び同県の行為と毛無川の管理責任を負う津市の行為とは、以下に述べるとおり、共同不法行為を形成するから、国家賠償法四条・民法七一九条により被告国及び同県は、津市と連帯して、原告らの蒙つた全損害を賠償すべき義務がある。

(二) 毛無川の設置・管理の瑕疵について

(1) 管理の主体

毛無川は、二級河川志登茂川の支川であつて、左岸が津市一身田平野字浜中七五四番地井堰、右岸が同市一身田中野字小向二一〇番地先の地点から志登茂川合流点までの区間六〇〇mは、本件水害当時二級河川であつて、被告国が河川法九条一項による設置管理者であり、河川法九条二項により被告三重県の知事をして、いわゆる機関委任事務として管理の一切を行わせており、被告県は、河川法六〇条二項により管理費を負担していたものである。

また毛無川の右区間の上流部分(大沢池に至るまでの区間)は本件水害当時普通河川であつて、津市が管理していたものである。

(2) 毛無川の設置・管理の瑕疵

(ア) 河川の「設置・管理の瑕疵」の意味については前記4・(一)で述べたとおりである。

(イ) 毛無川の状況及び流下能力

毛無川の大沢池から国鉄紀勢本線橋梁までの間は、主として水田地帯であり、更に右橋梁から下流の二百石橋までの流域は一身田市街地を形成している。

ところで、毛無川の流下能力は大沢池から右橋梁までの区間が二ないし一〇m3/s、右橋梁から常盤橋までの区間が五ないし一八m3/sしかないため、本件水害時以前から両岸への溢水を繰り返していたのである。

そして、本件水害時における大沢池と嘉満池からの流出量は最大値約五五m3/sであつて右疎通能力をこえていたため、上・中流で左右両岸に溢水したのである。

右のとおり、毛無川は本件水害時に雨水を安全に下流に流下させるだけの疎通能力を欠いていたのであるから、その設置・管理に瑕疵があるというべきである。

(三) 共同不法行為について

共同不法行為の成立要件については、被害者保護の立場から、共同行為(各人の行為の関連共同性)及び共同行為と損害の発生との因果関係の存在をもつて足ると解すべきである。

しかして、国家賠償法二条における共同行為とは、第一次的には、瑕疵ある設置・管理行為の共同ではなく、営造物の瑕疵そのものの共同を問題にすべきであるが、しかし、営造物の瑕疵の背後には、設置・管理行為の瑕疵が存在していることに着目するならば、設置・管理行為の共同という構成も可能であり、本件において、右の瑕疵の共同という立場をとれば、志登茂川の瑕疵と、毛無川の瑕疵とが併存していることは、まさに国家賠償法二条の共同不法行為における共同行為となるし、また、行為の共同という立場をとると、志登茂川の管理の瑕疵と毛無川の管理の瑕疵とが併存していることが、共同不法行為における共同行為ということとなり、いずれにしても、共同行為の成立そのものについては、疑いがない。

そして、本件においては、以下に述べるように「共同行為」の間には関連共同性が存在するのである。

(1) 河川及び排水路等で構成される排水機構は、各系列ごとに排除すべき水の発生(源流)から終末点(海)まで、全く切れめのない連続した一体のものとして存在し、その最大の使命は、各地域の雨水等を終末まで安全に流下せしめることにある。志登茂川とも毛無川も相合して原告ら居住地域に降つた雨水を安全に流下せしめる機能を課せられており、二つの関係は、単なる関連性の域をこえて、一体性を有しているというべきである。ところで、それぞれの管理主体が、河川のある部分は国であつたり、都道府県であつたり、市町村であつたりするのは、河川等の合理的、効果的な管理等を実現するための手段に過ぎないのであつて、部分毎に管理主体が異なるからといつて、排水機構の連続、一体の本質に差異をきたすわけではない。このように、河川等の排水機構が、連続、一体のものとして存在する以上、例えば、河川と普通河川、あるいは、河川と排水路がその管理体を異にしていても、いわゆるコンビナートにおける「群居性」とは比較にならないほどの強度の関連性――関連性というよりむしろ連続性・一体性というのが正確であろう――を相互に有するものといわざるをえず、本件における志登茂川と毛無川との関係も、もとよりその例外ではない。そして本件においては、右のように機能的、地形的に関連性、一体性が客観的に顕著な志登茂川と毛無川においてともに明白な瑕疵が存在していたものであるから瑕疵の共同という立場からは、この点からのみでも、共同行為の関連共同性は十分に認められる。

(2) 他方、管理主体という面に着目しても、志登茂川の瑕疵は、被告国及び同県の管理の瑕疵に起因するものであり、毛無川の瑕疵は津市の管理の瑕疵に起因するものであるところ、右に述べたように、両河川の機能的、地形的関連は極めて密接なものであるから、被告国及び同県の志登茂川の管理行為の瑕疵と、津市の毛無川の管理行為の瑕疵とは、共同不法行為における管理行為の関連共同性を認定するに十分というべきである。

(3) 加えて本件においては、志登茂川の溢水と毛無川の溢水とが時間的にも場所的にも接着して生じたものであり、それが一体となつて本件被害をもたらしたものであること、更には国・県・津市の治水政策は相互に有機的に結びついており、また、その政策の実施についても事務の委託をする等を通じて、相互に関連結合しているのであるから、両河川の管理行為という局面において、管理主体間に行政的関連性があるということ、すなわち、被告国及び同県は、行政のすべてにわたつて、津市を終始指導していることは勿論、下水道建設や各種浸水対策事業に補助金を出して、津市の公共事業を財政的に援助していること、志登茂川水害開発事業関連市街化区域内水排除計画並びに市街化区域外横川、毛無川、五六川流域小規模河川改修計画を被告県と津市とが協力しあつて工事を進めていることなどからすれば、本件共同不法行為における各共同行為の間に、いずれの見地からしても強い関連共同性があることは明らかであるといわなければならない。

しかして、右被告らの共同行為と本件水害による浸水被害との因果関係の存することはすでに述べたとおり明らかである。

よつて、被告国及び同県はいずれも本件水害から生じた損害について全責任を負わなければならない。

6  損害

原告らは、本件水害によりいずれも、濁水の中で長時間洪水の恐怖にさらされながら、日常生活に種々の不便を余儀なくされ、就寝、食事、用便についても極端な不自由を強いられ、また家屋や家財を汚損され、その復旧、清掃等にも多大の労苦と出費を払わなければならなかつたのであり、しかもそれらの被害は複合して生じたものであるうえに、その被害は次のとおり甚大である。

(一) 床下浸水を受けた原告らの損害

本件水害により床下浸水の被害を受けた原告らは、便所の汚水、汚水のヘドロ、泥水、ゴミ等が床下にたまつたため、大変な労力を用いて、畳を上げて床板を外してこれらを何回も排除せざるをえず、しかも右汚水等の臭気と湿気とが、家中に長期にわたりこもつたため、やりきれない思いをした。

また、右原告らは、浸水した床下を乾燥させなければならず、しかも再び洪水が襲来するのではないかとの不安があつたため、台風シーズンが終り、寒気が迫るころまで畳を敷かずに生活せざるをえなかつた。

更に、右原告らの家屋は、土台、柱及び床柱がき損、朽廃し、耐用年数が激減した。

(二) 床上浸水を受けた原告らの損害

本件水害により浸水を受けた原告らは、前記の床下浸水を受けた損害に加えて、床、柱、壁、畳、ふすま、家具、什器備品、布団、衣類及び書籍等の多くを汚水によつて汚損された(なお、床上三〇cm以上の被害を受けた原告らは、これらのほとんど全部を使用不能とされた。)。

そして、右原告らは、家中にたまつたヘドロ及びゴミの排除、家の清掃及び消毒に非常な労力、時間及び費用をかけざるをえず、最低でも、終日必死に就労して一〇日間を、こまごました片づけを含めると一か月以上をそれぞれ費やしたのであり、このため、中には疲労困憊により床に伏す者も出る有様であつた。

(三) 原告ら請求の損害の性質

(1) 原告らは本件水害により、前記のとおり建物の壁、床のはく落、はく離及び汚損、畳、建具、家財道具及び営業用動産の滅失、き損及び汚損等、物に対する積極的損害を受けたほか本件水害により、その居住家屋が通常の居住に耐えない状態になつたり、生活用物品が浸水で汚損し生活に利用できなくなる等、物の利用が阻害されて、生活上の客観的不便と精神的苦痛とを受けた。

また原告らは、本件水害により、酷暑にもかかわらず非衛生な生活環境の中で起居し、掃除、跡片づけ及び補修などに昼夜をわかたず追われ、病人が出ても不思議でない生活を強いられ、その生命及び健康に侵害を受けたのに加え、原告らは、本件水害時に、侵水及びそれに続く退水それ自体により精神的苦痛を受け、また身の回りのほとんどの物が破壊され、汚損されて、生活それ自体が破壊された。

(2) これを要するに原告らが蒙つた損害は、①物に対する積極的損害、②物に対する消極損害、③人の生命・健康に対する侵害、④人の生活に対する侵害の四つに分けうるが、①を除くと、他の三つの損害は、物の利用価値と人との有機的結合体たる家庭生活への侵害という概念に集約して理解することができ、これはいわば、居住者と物の利用価値側面とが結合して「生活体」を構成し、洪水がこれを侵害するというできものであるが、水害は、同時に物の所有者に対して積極的損害(=交換価値的損害)をももたらすのである。しかして、右の積極的損害は「生活体」侵害とはほんらい別ものであるが、水害においては、被害者が多数であり、保有する財産はきわめて多岐多様にわたり被害の程度も千差万別であること、しかも、かなりの年数を経ているから、浸水時点での正確な交換価値を評価することは困難であり、まして、滅失にいたらない物について、その減価を算定することは不可能に近いこと、しかし、事実としての損害が立証されているのに、金額の証明が不十分であるという理由で棄却されることはきわめて不合理であることからして、原告らは、かかる財産の積極的損害面をも含め、生活阻害を直接評価して、精神的損害そのものを包括算定し、慰藉料として損害賠償を求めるものである。

(3) そして、原告らは、それぞれ家庭を有する世帯主または主婦であつて、いわば一戸の家庭を一人でそれぞれ代表して本件請求に及ぶものであるが、これは損害の性質を右のごとくみることによるものであり、また原告らの損害は、前記のとおり、多岐にわたるが前記の床下浸水、床上浸水の態様に応じて損害を一律に三ランクに分類し、後記のとおり請求する。

なお、私法上の請求については、当事者ごとに個別的に具体的事情に応じて損害額が算定さるべきであるというのが法の要請ではあるが、本件水害によつて侵害された原告らの生活利益は、各原告が代表する各家庭ごとにその価値が異なるものとみるべきではないし、本件のような原告らが多数いる訴訟においては訴訟の迅速化及び訴訟経済上の見地からも一律請求は許さるべきである。

(四) 損害額

別紙第一原告目録(一)記載の原告ら(但し、22番宮路忠己、130番手塚正義、146番高須しづえを除く。以下原告(一)という。)は、長時間にわたり床上三〇cm以上の、同目録(二)記載の原告ら(以下、原告(二)という。)並びに同目録(一)記載22番宮路忠己、130番手塚正義及び146番高須しづえは、同じく床上三〇cm未満の、同目録(三)記載の原告ら(以下、原告(三)という。)は同じく床下に浸水する被害をうけた。その浸水位及び浸水時間は、一覧表(一)ないし(三)のとおりであり、もとより家財汚損の程度、復旧に要した日数、精神的苦痛度のいずれをとつても右三群について有意的な差異が存する。

そこで原告らは本件水害によつて蒙つた損害に対する慰藉料(その意味するところは前記6・(三)・(2)のとおりである。)として、原告(一)は各一〇〇万円、原告(二)並びに前記宮路、手塚及び高須の三名は各七〇万円、原告(三)は各三〇万円を請求する。なお別紙原告目録(二)のなかに、一覧表(二)にあるとおり床上浸水三〇cm以上の者が入つているのは一部請求の趣旨であり、右同目録(三)のなかに一覧表(三)にあるとおり床上浸水三〇cm未満あるいは三〇cm以上の者が入つているのも同趣旨である(一覧表(二)・(三)備考欄参照)。

(五) 弁護士費用

原告らは、本件事案に鑑みて、本訴の提起及び追行を本訴訟代理人らに委任し、報酬額を右請求額の一割と約したので、弁護人費用として原告らは右各請求額に応じて、その各一割である一〇万円、七万円及び三万円をそれぞれ請求する。

(結論)

よつて、原告らは被告らに対し、原告(一)は各金一一〇万円、原告(二)並びに宮路忠己、手塚正義及び高須しづえは各金七七万円、原告(三)は各金三三万円とこれらに対する本件不法行為の日である昭和四九年七月二五日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を各自支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否

〈中略〉

3 同3・(一)のうち、本件水害時に志登茂川今井橋付近から右岸に溢水したこと、溢水した水の一部が県道津・関線と志登茂川右岸堤防との間の水田地帯に湛水し、昭和四九年七月二五日午前七時二五分ころ右県道の北側路肩に設置されている、平均約四四cmの高さの遮水壁を越流したこと、右水田地帯の湛水量は約三〇万m3は下らないこと、右溢水のうち他の一部は、高田高校西側から右県道を越流して南下し、一身田市街地に流入したことはいずれも認め、右溢水が毛無川を越流したことは否認する。同(二)のうち、志登茂川左岸側では、今井橋上流付近で溢水し、溢水流が一身田豊野地内を経て、横川を越え、栗真地区、白塚地区、江戸橋地区に流下し、同条地区が浸水被害を受けたこと、平野井堰上流の左岸が二か所決壊したことはいずれも認める。同(三)のうち、一身田地区、栗真地区、白塚地区が溢水によつて、一身田地区は床上浸水一三〇六戸、床下浸水六二五戸、栗真地区は床上浸水七四七戸、床下浸水二九九戸、白塚地区は床上浸水七二六戸、床下浸水九五八一戸という被害を受けたことは認め、その余の事実は不知。

4 同4・(一)のうち、河川の安全性についての主張は争う。同(二)・(2)のうち、今井井堰及び平野井堰の各流下能力が五〇m3/sであることは認める。同(二)・(4)のうち、志登茂川の全体計画における計画高水流量が三〇〇m3/sであること(なお、これは暫定計画であり将来計画では四〇〇m3/sである。)は認める。同(二)・(5)のうち、各井堰の洪水疎通能力が各五〇m3/sであること、本件水害時の高水流量が一九〇ないし二四一m3/sと計算上算定しうるものであり、この高水流量は二〇年に一度の確率で発生すると予想されることは認める。

同4・(三)のうち、そこに摘示されている高潮対策事業としての工事をなしたこと、今井井堰地点の洪水疎通能力、本件水害時の洪水流量(但し、計算上のもの)、計画高水流量の点は認めるが、その余は争う。同4・(四)のうち、国鉄紀勢本線鉄橋から今井橋上流部分にかけての無堤地帯から多量の水が溢水したことは認めるが、その余は争う。

5 同5・(一)及び(三)は争う。同5・(二)・(1)の事実は認める。但し、津市管理にかかる部分は準用河川である。同(二)・(2)・(イ)の事実は設置・管理に瑕疵があるとの点を除き認める。

6 同6・(一)ないし(三)・(1)はいずれも不知。同(三)・(2)・(3)、(四)及び(五)はいずれも争う。

三  被告らの主張

1  本件豪雨及びその被害並びに志登茂川の特性等について〈省略〉

2  本件水害の原因について

(一) 内水について〈省略〉

(二) 毛無川の溢水について

一身田地区は、志登茂川本川の右岸であるとともに、毛無川及び五六川の流域にあたるところ、本件水害時において、毛無川及び五六川は志登茂川の溢水よりも数時間前、つまり七月二五日午前三時ころには溢水していた。

すなわち、毛無川は上流域が丘陵地帯となつており、ここに降つた雨は中流域にあるかんがい用溜池である大沢池(五万八七〇〇m3)及び嘉満池(一万七五九〇m3)によつてある程度流量調節がなされたうえ余水吐から流下されるのであるが、本件水害当時の毛無川の流下能力は、大沢池直下流から国鉄紀勢本線と交差する地点までが河幅三ないし五m、水深平均1.5m、河床勾配平均1/250であり、しかもまつたく改修されないままであつて河道には雑草が繁茂している状態であつたため、二ないし一〇m3/sであり、右交差点から常盤橋までは河幅約五mであり、その流下能力は約五ないし一八m3/sとみられる。ところが、大沢池及び嘉満池から毛無川への流出量は、七月二五日午前三時五分には一〇m3/sになつていたから、この時刻にはすでに溢水が始まり、午前七時四〇分には最大流量54.7m3/sに達し、同一〇時四〇分ころようやく一〇m3/sに減水しているから右時刻までに四九万六五〇九m3/sが溢水し、加えて、大沢池直下流から国鉄紀勢本線までの中流域には右午前三時五分から降雨のやんだ同八時一〇分までの間に一四万九六八五m3の降雨があつたから、結局、右流域の両岸には合計六四万六一九四m3の溢水が流入したことになる。そして、右六四万六一九四m3のうち、三分の一の二一万五三九八m3は県道豊野・久居線を越流して大古曽地区を経て五六川方向に流下したが、残り三分の二にあたる四三万〇七九六m3は一身田市街地に流入したと推定されるのである。

(三) 志登茂川の溢水について

(1) 溢水の時間的経過

今井橋における流出状況は、三重大学農学部附属農場の観測雨量によれば(なお昭和四九年七月二四日―以下、(三)項中、月日のみを記した場合は、昭和四九年度を示す―午後九時一〇分から七月二五日午前一時三〇分までに六二mmの降雨量があつたが、これは志登茂川流域地に浸透、湛水され、あるいは本川に流下したものと考えられるから、同一時三〇分以降の流出量を計算した。)、七月二五日午前三時四八分に流出量が一〇二m3/s(今井橋における流下能力は九三m3/s。)になつて溢水し始め、その後一旦は減水するが、同七時四八分には最大流量三二〇m3/sに達し、同一一時二八分に八五m3/sに減水するとともに溢水しなくなり、この間、約七時間三〇分にわたつて溢水した。

また、志登茂川右岸堤防と県道津・関線とに囲まれた水田地帯は本川の外水と同地帯の降雨とにより遊水池状態となり、ここに濁つた水が七月二五日午前七時二三分に水位T・P3.53mになつて右県道遮水壁(T・P3.5m)を越えて越流し始め、同八時三分には最高水位であるT・P3.55mに達した。しかし、右湛水はその後、徐々に水位は下つて、七月二五日午前九時四三分には右遮水壁を越えなくなり、更に同日午後一時二三分には右県道の最も低い部分であるT・P三m以下になつて越流は終つた。

(2) 今井橋上流付近からの溢水量

志登茂川流下能力は、今井橋において九三m3/sであるが、今井橋直下流右岸側の今井井堰の流下能力は五〇m3/sであるため、最大四三m3/sの流量が志登茂川左岸側の農業用水路に沿つて溢水し、本川左岸側の水田を流下しながら白塚、栗真地区に流入した。

また、志登茂川においては、今井橋上流付近で流下能力の九三m3/sをこえる総量二三九万七二四二m3の流量が左右岸に溢水し、その約三〇パーセントである七〇万六一〇〇m3が今井橋から豊野に向う道路を越流して左岸の水田を流下しながら横川を横断して白塚、栗真地区方面に流入(前記溢水と合わせると左岸側には約二〇〇万m3が溢水した。)し、約七〇パーセントにあたる一六九万一一四〇m3が右岸側に溢水し、うち一四一万二二〇一m3は志登茂川右岸堤防と県道津・関線に囲まれる水田地帯に湛水し、残り二七万八九三九m3が高田高校西端十字路西方の右県道を越流して南側の水田及び市街地へ流入した。

ところで、今井橋上流から右岸に溢水し、右水田地帯に湛水した分一四一万二二〇一m3と同地帯の降雨量三万七三六四m3とを合わせると一四四万九五六五m3になるが、七月二五日午後一時二三分までに、うち県道津・関線の路面下の用水路樋管を通つて二九万六二八八m3、遮水壁の開口部(南北に走る道路が東西に走る右県道と交わる部分四か所。)を通つて一三万〇九八四m3、遮水壁を越流して八万二五一七m3合計五〇万九七八九m3の水が右県道南の水田、市街地へ流入し、右午後一時二三分以降、更に右県道を越流しなかつた遊水池の貯溜水一一万三五七四m3も最終的には右樋管を通つて南側へ流入した。

3  本件水害の概要

(一) 本件水害は、右のとおり志登茂川水系(志登茂川、毛無川、五六川流域を含む。)に異常な集中豪雨が降つたために志登茂川及び毛無川が溢水したこと、原告らの大部分が居住する一身田市街地に縦横にはしつている排水路が狭く、しかもヘドロ等が堆積して排水不良であつたこと、一身田地区が都市化するとともに従前、遊水池として機能していた水田、畑などが減少したことなどの要因が絡み合つて発生したものである。

なお、右のうち志登茂川の溢水は毛無川を越流しなかつたから、原告らのうち毛無川右岸に居住する者が浸水の被害を受けたとしても志登茂川の溢水による被害ではない。

(二) 本件水害の原因に対する志登茂川と毛無川との寄与の割合

(1) 七月二五日午前七時二三分以前の寄与割合

毛無川の中流部(大沢池、嘉満池から国鉄紀勢本線橋梁までの区間)は、午前三時五分から左右両岸に溢水し始め、午前七時一五分までに一七万二五八四m3が溢水し、この流域に降つた降雨量一二万九六九八m3を加えると三〇万二二八二m3となるが、この2/3にあたる二〇万一五二一m3が左右両岸の市街地に流入しており、これに市街地の降雨量(内水)一二万九六九八m3とを合計すると三三万一二一九m3の水量が毛無川の外水と内水となる。これに対し、志登茂川は、午前三時四三分から溢水し始め、同七時二三分(これは、前記のとおり、志登茂川右岸と県道津・関線とによつて囲まれた水田地帯に溜つた水が右県道遮水壁を越流した時刻である。)までに市街地へ流入した水量は一二万八三二一m3であるから、午前七時二三分以前における原告ら居住の一身田市街地における浸水に対する毛無川からの溢水量及び内水量と志登茂川からの溢水量との寄与の割合は、2.57対1である。

(2) 全体としての寄与割合

毛無川は午前三時五分から同一〇時四五分まで四九万六五〇九m3が溢水し、この間、午前三時五分から同八時一〇分まで一四万九六八五m3の降雨があり、右溢水水量のうち、原告ら居住の一身田市街地への流入量四三万〇七九六m3と右降雨量とを合計した水量は五八万〇四八一m3であるのに対して、志登茂川外水は午前三時四三分から溢水したが、前記水田地帯に溜つた水が県道津・関線を越流しなくなつた午後一時二三分までの間に、一身田市街地に流入したのは前記2・(三)・(2)の各溢水量の合計九〇万二三〇二m3であるから、この割合は1対1.56である。

4  三重県における治水事業と志登茂川の改修事業

(一) 三重県の治水事業

三重県は地形的に海岸線が長い(総延長一〇八〇Km―全国九位・うち四四八Kmが海岸保全区域に指定されている。)ため、台風及び津波対策として海岸堤防の築堤に力を注がざるをえないという特殊事情があるが、河川改修事業に対しても最大限の治水努力をしているのである(昭和五五年一二月一日現在一級水系7.2級水系七四があり、総延長二五五二Kmうち三重県知事管理区間二三二三Km・全国二〇位にある。)。

(二) 志登茂川改修全体計画

(1) 改修の基本方針

志登茂川は、昭和四六年八月三〇日の台風二三号及び同年九月二六日の台風二九号の豪雨により、同川中流部から溢水して一身田地区に床上・床下浸水被害が生じた。これはすでに述べたように志登茂川の歴史的特性、地理的特性に加えて、志登茂川下流域の低湿地という自然条件を無視した急激な一身田地区の市街化によるものと言える。

そこで、三重県知事は従前のままでは今後とも浸水被害を惹起することが危惧されたので、河川管理者としては再度の災害を防止すべく、できる限りの措置を講じることとし、早速、昭和四七年度において抜本的な志登茂川改修全体計画を樹立して中小河川改修事業によつて改修することとした。

また、右に加えて昭和五一年度からは、河川激甚災害対策特別緊急事業により、改修の進捗を図つてきたところである。

(2) 改修の経過

志登茂川は、おもに農業用の用水河川であつたことから、三重県知事は、そのような認識のもとに従前から河川管理を行つてきたところであるが、昭和四七年度には志登茂川の抜本的な改修の全体計画を樹立するかたわら、流水の疎通能力を増大させるための平野井堰余水吐(越流堤)の改修及び今井井堰余水吐(越流堤)の新設等の応急対策を講じつつ、改修の全体計画に基づき本格的改修に着手し、目下鋭意改修に努力しているところである。

ちなみに、昭和四七年度以降志登茂川において実施されてきた改修事業の経過を列記すると次のとおりである。

昭和四七年度においては、平野井堰余水吐の改築、今井井堰余水吐の新築、新平野井堰構造物の設計及び地質調査並びに志登茂川下流(横川合流点より直上流左岸及び直下流右岸)一万二〇三一m2の用地買収を行つた。

昭和四八年度においては、志登茂川下流(毛無川合流点から西浜橋付近)四八三四m2の用地買収を行つた。

昭和四九年度においては、志登茂川下流(毛無川合流点から西浜橋付近)一万九七〇〇m2の用地買収を行つた。

昭和五〇年度においては、新平野井堰の改築及び取付護岸工事(五〇年度〜五一年度)並びに志登茂川中流部(国鉄伊勢線付近から今井橋まで一三〇〇m間)五万二一七六m2を先行買収した。また、毛無川排水機場用地約五六〇〇m2を買収した。

昭和五一年度においては、平野井堰直上流から今井井堰間の河道の拡幅、築堤、護岸工事等845.7m及び平野橋改築のための仮設道路の建設を行つた。また、志登茂橋直上流左岸約七五〇m2の用地買収を行い、更に、毛無川排水機場設置のための材料運搬道路の建設、排水機場の造成用地約二一〇〇m2の用地買収及び同用地の造成を行つた。

昭和五二年度においては、国鉄伊勢線から今井井堰間の河道の拡幅、築堤、護岸工事等1110.6mを行つた。また、平野橋及び極楽橋の改築(五二、五三年度)及び毛無川排水機場の実施設計を行つた。

昭和五三年度においては、新今井井堰の改築と取付護岸工事、国鉄伊勢線上流の護床工事、排水機場の下部工事、建家及びポンプ設備製作(五三、五四年度)を行い、横川合流点から国鉄伊勢線までの七〇〇m間及び今井橋から国鉄紀勢本線までの一二〇〇m間の九五九九m2の用地買収を行つた。

昭和五四年度においては、今井井堰から川北橋間の河道の拡幅、築堤、護岸工事等1128.4mを行つた。また、今井橋から国鉄紀勢本線までの一二〇〇m間及び横川合流点から国鉄伊勢線までの七〇〇m間の五万八八九六m2の用地買収を行うとともに、昭和五三年度より着手していた毛無川排水機場(ポンプ五m3/s二台設置)の完成をみ、更に、今井橋及び川北橋の改築を行つた。

昭和五五年度においては、国鉄伊勢線橋梁付近において六〇m及び川北橋上流部で92.4mの河道の拡幅、築堤、護岸工事等を実施している。

(3) 改修の事業費

前記のように昭和四七年度から改修に必要な用地の取得を鋭意実施し、更に、志登茂川中流部の中でも最大のネックとなつている平野井堰及び今井井堰の改築(最大通水計画三〇〇m3/sのうち一五〇m3/sの暫定改修)並びに国鉄伊勢線合流点付近から今井橋上流の川北橋までの一七〇〇mの区間の蛇行部をショートカットして河床幅を三〇ないし四五mに拡幅し、堤防を海抜3.50ないし5.57mの高さに築堤する等わずか九年間にこれほど改修の努力を払つてきた中小河川は全国的にみても数が少ないのである。しかしながら、このような努力にもかかわらず、志登茂川改修全体計画の中の暫定計画の時間雨量八〇mm、今井井堰最大通水量三〇〇m3/sに対応する改修工事を実施するためには、昭和五六年度以降なお一〇〇億円の事業費が必要とされているのである。

昭和四七年度から中小河川改修事業により志登茂川の改修に着手したことは、前述したところであるが、一方、被告国においては、本件水害のような台風や集中豪雨による大規模な災害に対し、地域を指定して約五年間を目途に集中的に資金を投入して災害復旧と防災対策を緊急に実施しようとする「河川激甚災害対策特別緊急事業」(激特事業)を昭和五一年度から発足させたので、志登茂川についても早速この制度を導入して積極的な改修に着手し、今日まで多大の努力を払つてきているところである。

昭和四六年八月及び九月の台風による豪雨によつて志登茂川が氾濫したため、中小河川改修事業の制度を最大限に活用して河川改修に努力するとともに、昭和四九年七月の本件水害に鑑み、再度の災害を防止するために、昭和五一年度に創設された河川激甚災害対策特別緊急事業による河川改修の推進について、県民の合意を得ていちはやく、これを導入したところで、これらの事業による昭和四七年度以降九年間に志登茂川改修のために投入された事業費は、総計約52.7億円になる。

5  河川と河川管理について

(一) 河川管理の特殊性

河川は自然公物であり、本来的に洪水氾濫という危険を内包しているが、一方生活及び生産活動に有用であるから、その管理は治水面及び利水面の両面からなされなければならない。

わが国における治水事業は、明治八年以来ぼう大な投資のもとに実施されてきたが、わが国においては、その地理的、気象的条件、河川の自然的特性、人口、産業の都市集中化及び土地利用の高度化による河川周辺地域への資産等の集中等により治水投資額はぼう大なものが必要であるため、河川整備率は必ずしも高くなりえず、その結果、水害の発生は依然として防止しえない状況である。

ところで、治水面からみた河川管理には、河川は流水という自然現象を対象とするため、その作用等の予測が一般的に困難であること、河川は本来的に危険を内包しているが、そのままで管理を開始せざるをえないこと、河川においては道路管理の場合のごとく簡易で緊急の危険回避手段はなく、築堤等の治水施設を設置するほかないこと、河川改修には不可避的に財政的、時間的、社会的、技術的諸制約を伴うこと、当該河川の利用についての歴史的、社会的沿革、利用実績等を考慮しなければならないことなどの特殊性がある。

(二) 河川管理上の制約

河川には右(一)に述べたような特殊性があるが、河川改修によつて河川の安全性を高めるについても、次のような制約がある。

(1) 財政的制約

わが国の河川はすべて洪水氾濫の危険があるが、これを改修して各河川の洪水発生率を大河川については一〇〇ないし二〇〇年に一回程度、中小河川にあつては三〇ないし一〇〇年に一回程度にするためには一〇〇兆円もの費用がかかるのである。このため、当面、大河川では戦後最大の洪水に、志登茂川のような中小河川にあつては一時間五〇mm相当の降雨(五ないし一〇年に一回発生する規模程度)にそれぞれ耐えうるように整備することが目標とされているが、このためだけでも今後約三〇兆円が必要である。このように治水事業はその性質上多額の資金が必要なのであるが、一方行政需要は治水事業のほか多岐にわたるため、各需要間での行政目的、効果等を勘案しての調和をはかることが必要であり、財政面で治水事業を当然に最優先とすることはできないのである。

このような次第で、治水事業においては財政面からくる制約を無視することはできない。

(2) 時間的制約

河川は、危険を内在させ、安全性を確保されないまま人間の社会経済生活の中に組み込まれ、公共の用に供されているのであるから、それが有する危険を回避することについて本来的に時間的制約があり、道路のような人為を対象とした公物とは本質的に異なるものである。また、河川工事の性質上、当然に長期間の工期(改修工事を実施する場合には全川について平均的に工事を進捗させる「段階的改修」と呼ばれる施工方法がとられざるをえないから、工事規模も大きくなり、おのずから長期化する。)が必要であり、しかも工事期間中は流下機能を必ずしも十分安全に保つことができないという時間的制約がある。

(3) 社会的制約

わが国において、昭和三〇年代から同四〇年代なかばにいたる経済の高度成長により、人口及び産業の急激な都市集中が生じたため、都市近郊地域における宅地開発が進み、従来、一定の洪水時には冠水して遊水池となつていたような農地がただ土盛りされただけで宅地とされてしまい、新たに浸水被害地となつたりするなどしたため、治水事業の必要性は更に高まつた。しかし、その一方では高度成長に伴う地価の高騰、地域住民の強固な所有権意識及び生活問題等から用地買収がますます困難となり、河川改修工事はより困難な状況となつた。かかる都市化現象は、河川管理の立場からは全く制御しえない社会的現象で、いわば抑止不可能な外的要因により生じたものである。

(4) 技術的制約

河川における流水及び洪水は各河川ごとに異なる自然現象であるため、その作用等の解明については、たとえば自動車のように事前に実用負荷でテストを行つて作用等の確認をすることは困難であつて、経験によらなければならないところが多いので、治水施設の安全性についての研究も万全にはなしがたいのである。また、洪水の原因となる降雨についても、性質上、その具体的予測は不可能である。このように治水工事には現在の科学技術水準上種々の制約が伴うのである。

(三) 河川管理責任について

右(一)、(二)に述べたような河川管理の特殊性、河川管理上の諸制約に照らせば、本件水害のような未改修(河川管理施設未設置)箇所について、これを国家賠償法二条にいう設置・管理の瑕疵ということは原則として否定されざるをえないのであり、その理由は次のとおりである。

(1) 河川管理施設を設けることは原則的には河川管理者の政治的、行政的義務にすぎないものであつて、河川管理のために河川のどの地点にいかなる施設をどのような順序・工法で設けるかは河川管理者の裁量に委ねられているものというべく、たまたま、ある河川のある地点にある河川管理施設が設けられていなかつた結果、河川の氾濫による災害が生じたとしても、そのことが即国家賠償法二条にいう瑕疵があつたということにはならない。

(2) しかも、河川管理施設の設置等の河川改修事業はぼう大な工事量で多額な予算と人員を投入しなければならないものなのであり、改修工事を実際に行うためには、大量の用地を買収したり、錯綜する複雑な水利権との調整を図る必要があり、そのためには関係地域住民の協力、賛同を不可欠とするから、改修工事の着手あるいは改修工事完了には長い年月をかけざるを得ないのである。このように河川改修事業は長年月をかけて段階的に河川の安全性の向上を図ろうとするものであるから、その実施途中における安全確保義務は、その時点で設置されている施設により安全に流下させ得ると判断できる規模の洪水までであると解するのが最も妥当であるが、当該河川が洪水を流下しえなかつたことについて、換言すれば当該河川のそのような整備状況について諸般の事情を総合的かつ相関的に判断して、河川管理者の怠慢であることが明白であるといえるような特別の事情がある場合には例外的に管理の瑕疵ありと評価されることになる。

6  志登茂川の管理瑕疵の不存在について

(一) 本件溢水に係る浸水被害に関する河川管理瑕疵の不存在

原告らは、志登茂川の改修はもつと早期に実施すべきであつたと主張するが、志登茂川の改修時期及び経過は、すでに述べたような社会的、時間的、財政的理由からして相当であり、本件浸水被害は、この志登茂川の改修途上におけるやむを得ないものであつて被告らに河川管理責任はない。

すなわち、河川管理のために河川のどの地点にいかなる管理施設を設置すべきかは河川管理者がその河川の特性、河川工事の経済性等あらゆる観点から総合的に判断して決めるべきことであり、単に特定の地点に河川の氾濫による災害の生ずるおそれがあるとか災害が生じたとかの事実があることから直ちに河川管理者に右地点に堤防を築造する法的義務があるとはいえないのであつて、河川管理者にそのような義務があるというためには、あらゆる観点から総合的に判断して河川管理上その地点に河川管理施設を設置することが流水を安全に下流に流し付近の農地や住宅を水害から守るために必要不可欠であることが明らかであり、これを放置することがわが国における河川管理の一般的水準及び社会通念に照らして河川管理者の怠慢であることを必要とするといわなければならないが、以下に述べるとおり、被告らの志登茂川管理に怠慢はなかつたのである。

志登茂川の全体計画に着手した昭和四七年当時、三重県知事管理の二級河川は七七水系二一二河川、流路延長1042.685Kmもあり、志登茂川だけを直ちに先行して改修しなければならない特別な事情はなかつたのであるが、昭和四五年八月、都市計画法に基づく線引きが行われ一身田地区の大部分が市街化区域に編入されてから、従来低湿地や水田・畑が多く、さしたる道路や下水道の都市整備もなく、住宅不適地として宅地化があまり進まなかつた場所に土盛りされ、排水が不完全のまま宅地化されて住宅が建てられたことによる内水滞水、流域の宅地開発による保水機能の低下、地下浸透の減少等流出機構の変化が始まつたところへ、昭和四六年八月の台風二三号及び同年九月の台風二九号により一身田地区の人家にそれぞれ床上浸水二四五世帯及び三六八世帯が発生したため、被害三重県は昭和四七年度より志登茂川水系の改修工事を県の最重点施策として取り上げ、爾来昭和五五年度に至る今日まで毎年度、大蔵大臣及び建設大臣等へ陳情するなどしながらも、中小河川改修事業に採択して志登茂川の第一山付き地点である今井橋を高水基準点とし、計画高水流量は将来計画は四〇〇m3/s、暫定計画では三〇〇m3/sとして工事に着手し、その後も流域の都市化に対応して一日も早く改修するため、昭和五一年度からは河川激甚災害対策特別緊急事業をも加えて、今なお改修計画が進められているのである。

更に昭和五五年現在、原告が瑕疵を主張する国鉄紀勢本線交差点付近から下流の平野井堰までの間二二五〇mのうち約一三〇〇mを概成し、これまで改修工事に要した事業費は昭和四七年度から同五五年度までに約五三億円の多額にのぼり、全県的にみても同規模の中小河川でこれほどの改修費を投入した河川はないのである。

昭和四六年八月及び九月の台風によつて志登茂川が溢水したことから、前述したように昭和四七年度において平野井堰の余水吐の延長を従来の二倍強(延長23.4m)に拡幅し、今井橋の余水吐(延長八m)を新設するため敢えて二重投資をして、志登茂川の流量をできるだけ増大させるなどの緊急措置を講じながらも併行して全体計画を進めてきたのであつて、昭和四七年度からの志登茂川改修着手は極めて相当なもので、その改修時期について非難されるところはない。

また、三重県知事は昭和四七年度は全体計画を策定し、建設大臣からその実施認可を受けるとともに前記緊急対策を講じ、井堰の設計、地質調査をするとともに更に、志登茂川下流部一万二〇三一m2を用地買収し、同四八年度は下流部四八三四m2の用地買収、同四九年度は下流部一万九七〇〇m2の用地買収をなし、同五〇年度は新平野井堰の改築及び中流部五万二一七六m2の先行買収を実施するなど本訴提起の年までに用地買収及び改修工事に鋭意努力してきた。

特に、昭和五〇年度には志登茂川用地買収の専門班(県職員三名、津市職員二名、三重県開発公社職員二名で編成)を設置するとともに先行取得費四億八六〇〇万円を投入して土地所有者との交渉に全力を傾注したが、過去、被告三重県において河川改修の用地買収にこのような専門班や先行取得費を導入して河川改修を促進させた例はない。

なお、本件水害を契機として各地区の自治会長等が中心となつて志登茂川改修促進協議会が結成されたりして、改修事業に対し土地所有者の理解も高まり特段の協力が得られたが、それでも一四万八八二一m2の用地買収に六年の長年月と多額の費用を要しているのである。

(二) 本件河川の整備に関する河川管理責任の不存在

本件水害の主たる要因は、異常な集中豪雨という自然現象によつて引き起こされたものであつて、原告らが居住する一身田地区のみの特異な現象ではなく、志登茂川流域は勿論三重県下の伊勢湾沿岸都市部を含んだ広範囲にわたつて生じた水害の一部であり、志登茂川の管理瑕疵によつて生じたものではないから、被告らは原告らの損害につき法的責任を問われるべきものではない。

すなわち、本件集中豪雨は、昭和四九年七月二四日午後四時から同月二五日午前八時までの一六時間に総雨量で330.5mmに達し、平均時間雨量にして20.6mmの降雨が継続的かつ集中的に続いたことに特徴があるところ、志登茂川のような小流域河川にあつては日雨量よりも時間雨量に注目すべきであり、津地方気象台の観測では七月二五日午前二時から同三時までに59.5mm、午前五時四〇分から同六時四〇分までに六八mmの時間雨量を記録し、更に、午前四時二〇分から同六時五〇分までの一五〇分間の連続雨量は一二〇mmを記録するなど異常な集中豪雨が小流域河川に大きな影響をおよぼすことは河川工学上からも明白な事実である。

このことは、本件豪雨が津地方気象台が明治二三年雨量の計測以来、日雨量では最高位の集中豪雨であることからも明らかである。

しかして、本件水害は、すでに本件水害の概要で述べたように、異常な集中豪雨と原告らの居住する一身田地区の地形的特性、志登茂川、毛無川の外水の溢水並びに多量の内水湛水とが相乗して発生した自然現象である。

ところで、河川管理の瑕疵を論ずる場合、その瑕疵とは洪水の危険性の極めて高い破堤あるいは崩壊状態の放置等をいうのであつて、本件志登茂川の場合は破堤、崩壊もなく今井橋直上流右岸からの溢水であり、また志登茂川そのものが異常な集中豪雨により外水と内水により水没してしまつたような状態であつた。しかも本件水害時は、すでに述べたように昭和四七年度から施工された志登茂川改修事業の実施中であり、その溢水も改修中の箇所ではなく、従前から在る今井橋直上流の堤防を含む広範囲からの溢水であるのであつて、志登茂川の特定の箇所の管理に瑕疵があつたとはいえない。

7  限定責任について

(一) 前記のとおり本件水害は異常な集中豪雨と原告らの居住する地域の地域的特性(低湿地、市街化の進行)が相乗して発生したものであるが、これに加えて多量の内水の湛水、毛無川の外水、志登茂川の外水等の併存によつて生じたものである。

また、すでに詳述したように、本件浸水被害は、被告らが河川改修についての財政的、時間的、社会的、技術的な制約・限界の中で、志登茂川の改修については最大限の努力を払つて工事の施行に努めていた、いわば改修途上に発生したやむをえない災害であつて、これについては何ら批判されることのないものであり、これらの諸事情を考慮すれば、河川管理者がその管理責任を問われるべきものではないのであるが、仮に、被告らが志登茂川の外水の溢水について河川管理責任を問われるとしたら、志登茂川の外水が原告らの居住する一身田地区の浸水現象に寄与したその割合に応じて責任を分担すれば足りるものというべきである。

原告らの居住する一身田地区の浸水被害は、志登茂川の外水が溢水し、遊水池に貯溜され、水位が上昇して県道津・関線の路上あるいは遮水壁を越流する相当以前に既に訴外津市長の管理する排水路からの内水の氾濫及び毛無川の外水の溢水によつて床上・床下浸水が始まつていたのであり、このことは毛無川の外水、内水の湛水、氾濫からだけでも浸水被害が生じたことをあらわしている。そして、昭和四九年七月二五日午前七時二三分志登茂川の外水が県道津・関線を越流して、原告らの居住地へ流入したことによつて、その浸水の程度を拡大させたのである。

このことから、志登茂川の河川管理に瑕疵があるとしても、被告らは、志登茂川の管理瑕疵から生じた部分についてのみその責任を割合的に負担すれば足りるのである。

(二) 浸水割合

原告らの居住する一身田地区への浸水現象に対して、志登茂川と毛無川及び内水が与えた影響の割合は約1.6対1であり、これを七月二五日午前七時三〇分以前に限れば約1対2.5である。

しかし、原告らの居住する一身田地区への志登茂川、毛無川及び内水の寄与について、これを場合に分けると志登茂川又は毛無川・内水だけで床上浸水になる場合、あるいは、いずれか一方だけでは床下浸水のみである場合、志登茂川または毛無川・内水だけでは床下浸水にとどまるが、いずれか一方が加わつたことにより床上浸水になる場合のいずれかである。

そして、仮に、志登茂川の外水の溢水が河川管理の瑕疵にあたるとしても、前記のとおり、志登茂川が溢水し始めたのは、七月二五日午前三時四三分であり、遊水池の水位が上昇し、県道津・関線を越流し始めたのは同日午前七時三分であり、更に水位が上昇して遮水壁(T・P3.5m)を越流し始めたのは同日午前七時二三分であるところ、七月二四日夕刻から翌二五日午前六時まで249.5mmの集中豪雨が波状的に降り続き、この雨水はほとんど浸透滞水することなく原告らの居住地区に集中したため、志登茂川の外水や遊水池に降つた雨水が県道津・関線を越流する以前に、原告らの一部は床上あるいは床下浸水していたのであつて、本件水害は、三重県中・北勢部の広汎にわたつて生じた浸水被害と同じく、異常な自然現象によつて生じた雨水(内水)あるいは訴外津市長が管理している準用河川毛無川からの外水及び排水路からの内水の氾濫によつて生じたものであり、志登茂川の外水との関連性はなく、仮にあるとしても、その関連性は極めて弱いものというべきである。

(三) 毛無川及び排水路からの氾濫

準用河川毛無川は訴外津市長の管理下におかれている河川であるが、本件水害当時、構造の欠陥、狭窄、土砂の堆積等により疎通能力を欠いていたものであつて、本件水害の原因は、これまで述べてきたように七月二五日午前六時三〇分ころまでに異常な集中豪雨と毛無川の外水と毛無川から排水路への逆流による排水路からの内水氾濫等により原告らの居住地区は床下浸水(一部床上浸水)が発生しており、そのあと午前七時三〇分ころ志登茂川からの外水が県道津・関線を越流して原告らの居住地域へ流入したのであり、仮に志登茂川からの溢水が河川管理の瑕疵に基づくものとしても、原告らの居住地区の水害は、異常な集中豪雨と毛無川、排水路からの溢水が併存して全体として原告らの居住地区の被害を発生・拡大させたのである。

右によれば、被告国及び同三重県に河川管理者として志登茂川の管理に瑕疵があるとしても、右瑕疵が本件水害に与えたとする割合については、七月二五日午前七時三〇分以前における志登茂川と毛無川及び内水(排水路からの氾濫水・降雨)の割合は1対2.5であり、全体としては逆に1.6対1であるので、この範囲でその責任を割合的に負担すればよいと解すべきである。

8  損害

原告らは、本件水害による浸水被害による損害を三ランクに区分して一律請求しているが、損害は個別的、具体的事情に応じて算定すべきであり、しかもその財産的損害は金銭的に評価することが可能であるので、原告らの一律請求は当を得ないものである。

(一) 一律請求の不当性

原告らは、本件水害において被つた社会的、家庭的、経済的、精神的損害等すべてを包括して、これらを床上浸水三〇cm以上、床上浸水三〇cm未満及び床下浸水の三ランクに分けてすべてこれを慰藉料として請求しているが、このような請求は、損害賠償請求訴訟における損害は当事者毎に具体的事情に応じて算定するという民事訴訟の原則から逸脱している。

原告らは、自ら記載した損害明細書(甲一八号証)によつて、それぞれの個別損害を主張しているように、本件水害によつて被つた経済的な損害については具体的な金額の算定は可能であつて、しかも、その額は各被害者につき同一でないのであるから、家庭的及び社会的損害についてもまた同一であるとはいえないのである。原告らは少なくとも、概数程度にせよ損害額算定の根拠を主張、立証すべきである。

また、損害額のランク付けについても軽重の差があるはずであつて、これを全く無視し去つて、床上浸水は三〇cmを基準に、床下浸水は包括的に一律ランク付けして処理しようとすることは公正を失し、不当といわなければならない。

従つて、本件請求は原告らの浸水による精神的、家庭的、経済的等一切の日常生活上の有形、無形の損失、不利益をもたらす精神的苦痛に対する慰藉料請求のみと解するほかなく、また、慰藉料額についても可能な限り原告らのそれぞれ個別的事情を考慮して、公平、妥当かつ合理的に算定されるべきである。

(二) 床下浸水者の請求の不当性

本件集中豪雨によつて、東海三県に甚大な被害が発生し、とりわけ三重県においては伊勢湾台風に次ぐ大きな被害が発生したことは前述のとおりである。

原告らの居住する津市北部の一身田、栗真及び白塚地区に限定しても六三九二世帯(昭和五〇年一二月現在)のうち床上浸水二七八一世帯(全体の四四パーセント)及び床下浸水一八八二世帯(全体の二九パーセント)と右地区内の七三パーセントの世帯が被災しているのであり、ひとり原告らだけが日常生活の不便を余儀なくされたり、家屋や家財を汚損されたりしたのではない。むしろ、被災者の中には原告らのそれと比較して、より甚大な被害を受け多大の労苦と出費を払わなければならなかつた者も数多く存した。

しかるに、別紙第一原告目録(一)の22番宮路忠己及び同目録(三)の1番赤塚肆朗以下四二名はいずれも床下浸水だけで、被害も極めて軽微なはずであり、このような床下浸水者の損害は社会通念に照らしても、はたまた本件水害による被災者の社会的公平の原則からいつても受忍の範囲内である。

(三) 毛無川右岸に居住する原告らの請求の不当性

別紙第一原告目録(一)のうち、112ないし120番の篠木信一、門脇孝一、中条乙吉、田中四郎、石井三義、小亀映二、三崎欣一、内田義夫、吉田佐市、149ないし151番の山本一美、株式会社松沢製作所、ミエハク工業株式会社、156番佐脇栄一、同目録(二)のうち、3番細川隆、11番田中享、34ないし38番の本多知行、草深清三、後藤林弘、島川マサ、小林利雄、40、41番の藤井貞治、荒木史郎、48番稲葉晴三、87番松沢信夫、90番小田スエノ、97番向井一之、99番丹羽義雄、同目録(三)のうち、10番田中一恵、22ないし27番の田中好、野田和伸、松本きぬ、伊藤アキ子、大森やすの、堀田武夫、33番伊藤頼一は、毛無川右岸に居住しているが、前記3・(一)のとおり、志登茂川の溢水流が毛無川の右岸に及んだことは明らかでなく、これを前提とする右原告らの請求は失当である。

(四) 浸水位の杜撰性等

本件水害直後に、津市役所職員と自治会長が本件水害の被災家庭を訪問して測定、調査した災害救助調書に基づく津市長の証明書(甲第一三号証)によると、別紙第一原告目録(一)のうち、22番宮路忠己、32番笠井淳一、40番下津醤油株式会社、45番今井一郎、113番門脇孝一、118番三崎欣一、130番手塚正義、146番高須しづえは、いずれも本件水害によつて床上三〇cm以上の浸水被害を受けたものでなく、床上三〇cm未満もしくは床下浸水の被害を受けたに過ぎない。

また、右津市長の証明書と原告らが主張する浸水水位とは合致しないことが多く、原告らの主張する損害は不明瞭である。

なお、別紙第一原告目録(一)8番森秀雄と同9番森マスとは親子であり、本件水害当時、原告森マスは同森秀雄方に同居していたのであるから、原告らの損害論を前提とするかぎり同森マスの被害は同森秀雄の被害に内包されるというべきであり、別個に請求するのは不当である。

(五) 住民らの責務

災害の危険を持つ都市では、土地の性格への無知は災害の危険度を倍増させるのであり、土地と水害を含む諸災害についての最小限の知識と意識を持つことは現代市民の義務であるというべきである。

従つて、住宅不適地を宅地化したり、あるいは住宅地とすることによつてこれまでの農村としての安定した自然環境を破壊し、災害の新しい要素を現出せしめることが予想されるのに、それらの検討も対策もなく安易に住宅を建てるなどのように、防災に対する意識をもたず、また、それに対する可能な自衛の処置もせず、被害に見舞われれば防災施設の不充分によるものだとして、これを行政の責めに帰しうることはできないというべきである。

ところで、原告らの居住地域は、一番低いところでありながら水害に対する防災措置がされていない。それどころか、本件水害に際してカメラ二台、和文タイプ等貴重品を畳の上に漫然放置し、あるいは二階建てであるにもかかわらず、テレビ、ふとん、洋服、着物などを汚損させるなどしているのである。このような損害が生じたとしても本件浸水とはもはや相当因果関係はないというべきである。

(六) 損益相殺(一身田町の県営住宅に居住する原告らについて)

被告三重県は、本件水害によつて一身田町所在の県営住宅が被災したため、昭和四九年七月二五日に被災戸数及びその程度を調査して、汚損された畳を直ちに除去するとともに、一戸当り二枚程度の畳を仮置きしたのであり、更に同年九月中にはすべての畳を新しいものに入替えするとともに床の張替えを行い、また翌年一月から三月にかけて襖及び壁の張替えを行つたのである。

これを本件原告らについていうと、それぞれの居住県営住宅について、別紙第一原告目録(一)のうち、139ないし142番の川村義満、真弓千代、前田好典、柴田弘之については、いずれも修繕費金一三万八〇〇〇円をかけて畳、床組補修、襖張替え、建付調整等の修繕が行われ、143番木村泉については、金二三万九〇〇〇円をかけて台所、廊下フローリング張替え、畳敷手間等の修繕が行われ、165番木下喜代子、同目録(二)77番杉野猛、79、80番甲田裕明、中川直保については、いずれも金一三万八〇〇〇円をかけて、78番西村克志については、金一一万五〇〇〇円をかけて、同目録(三)9番草深良徳については金一一万三〇〇〇円をかけて、それぞれ畳、床組補修、襖張替え、建付調整等の修繕が行われ、同目録(三)29番五十右勇については、金二三万九〇〇〇円をかけて、台所、廊下フローリング替え、畳等の修繕が行われたのである。

従つて、右原告らについては、右各修繕費により損害の一部が填補されたことになるから、これを請求額から控除するか、慰藉料額算定においてこれを斟酌すべきである。

四  被告らの主張に対する反論

1  本件洪水の原因について〈省略〉

2  天災論(異常豪雨論)について

被告国及び県は、本件水害は異常な豪雨によるものであると主張し、また、本件水害が天災であり、不可抗力によるものであるかのような主張をしているが、本件水害は、志登茂川の通水能力が極めて小さかつたために生じたものであつて、不可抗力が抗弁とならないことは言うまでもない。

被告国及び同県は、日雨量としての豪雨をもつて右主張の根拠としようとするが、洪水到達時間が2.5時間程度の志登茂川のような中小河川では、河川に対する影響の最も大きいのは、洪水到達時間内の雨量であつて、降雨量の志登茂川への影響は、到達時間内降雨量・日雨量・総雨量の順に影響が少なくなるのであつて、日雨量の多少をもつて、降雨の河川の影響を論ずることは早計とのそしりをまぬがれない。

また、本件水害時の降雨量は、津地方気象台の観測データによつても、109.5mmであつて、明治三八年から昭和四九年迄の七〇年間(資料数六五)の一五〇分間雨量としては、五位の雨量であるところ、三重県中部地区は、昭和三四年八月一四日に順位一位の雨量を、昭和一九年一〇月七日に三位、昭和三九年九月一三日には四位と本件水害を上まわる雨量を経験しているのであるから、本件水害時の雨量は、十分予測可能な範囲内の雨量である。

更にもし、被告らの主張のごとく、志登茂川でも長時間雨量が問題となるのであれば、志登茂川の改修計画においても、当然この点が配慮され、総雨量や二四時間雨量が基準とされるべきであるが、被告県が本件水害後に作成した志登茂川水系工事実施基本計画(案)にあつても、総雨量二四時間雨量はその計画の基準とされておらず、六〇分間雨量と到達時間内平均雨量強度のみが問題とされているにすぎず、また、右計画における洪水到達時間は2.5時間とされているところ、本件水害時の2.5時間内雨量は109.5mm前後であり、ほぼ二〇年に一回は起こりうる程度のものであつて、とうてい異常豪雨といえるものではない。

以上のとおり、本件降雨が「異常な豪雨」でなかつたことは明らかである。

そもそも、河川の洪水に対する安全性は、普段の雨を対象として考えておけばよいというものではなく、むしろわが国のように毎年、どこかで豪雨が降るであろうことが予想されるところでは、相当の豪雨を念頭に置いた上での安全性を考えなければならないのであつて、この点からも被告らの主張は理由がない。

3  財政・技術上の制約論について

被告国及び同県は、河川改修には莫大な費用と長期の日時を要するのであつて、できる限りの対策をたてているが改修が追いつかない状態であり、未改修のまま放置しても財政的・技術的・客観的にやむを得ない状態であつたから責任はないと主張する。

しかし、営造物が安全性を欠く以上、財政的理由によつて責任を免れることはできないというべきであり、財政的制約は不可抗力事由に該当せず、何ら免責理由とはなりえない。

なお、国家賠償法二条は危険責任を主要な根拠とする無過失責任と解すべきであるが、危険責任には財政的理由による免責ということは考えられない。また、一般の訴訟において債務不履行なり不法行為なりが、債務者の財政的理由や手許不如意によつて免責されないことは明らかであり、このことからも本件のような国家賠償請求事件においても財政的理由は抗弁とはなりえない。

また、公の営造物は、行政主体が独占的に支配、管理しているのであるから損害が生じた場合には、支配、管理の反面として当然賠償責任を負うべきである。

右のことは、これを実質的に考えても、財政投資がなされて改修され、瑕疵のなくなつた河川の地域の住民に比べて、財政投資がなされずに放置されたために損害を被つた住民は、財政投資の利益を享受していないのであるから、せめてその損害を賠償するのが公平である。しかも、財政的理由による免責を認めるとすれば、財政的制約が全くやむをえないと評価できる場合に限定しないと、ほとんど全ての場合が免責されることになるし、限定するとすれば、当該河川と他の河川との比較や改修計画の当否、更には河川と道路その他のものに対する投資額の比較という国家予算そのものの適否の検討に立入らざるを得なくなるが、これは、訴訟手続の構造からみて、至難事をしいるものである。

4  改修途上論について

被告らは、志登茂川は改修途上であつたから、本件瑕疵区間に瑕疵が認められるとしても、被告らに法的責任はない旨主張しているが、この主張は、独自の限定責任論に依拠しているものである。

つまり、そもそも、「未改修」という概念は極めて曖味なものであつて、改修工事にとりかかつた途中の状態をいうのか、未だ全然工事にかかつていない場合も含むのか、河川の一部の工事に着工している場合に他の部分についてはどうか等明確でなく、右の場合が未改修だとすれば、たとえ完成したとしても、その直後はともかく、また次のより高次のレベルへの改修へ向けての努力が始まる訳であるから、そのレベルとの関係では未改修ということになり、その段階で訴訟が提起されれば、「一応は改修したが未だ完成していない」との抗弁が出されてしまうことになるのである。このように未改修という概念は、場合を限定する論理的な枠組としては不完全なものであり、結局、ほとんど全ての場合が政治的責務とされることになつて結果的に著しく不当である。

また、道路の管理責任と河川の管理責任とに質的差異を設けるべき必然性はない。道路の場合にも大きな財政負担がいるし、全道路が防災上完成の域に達している訳でも勿論なく、河川と同様不十分な状態にある――しかも現状では、両者に対する投資額も問題である――。従つて、河川の場合のみ未改修であるとの一事をもつて免責されるいわれはなく、あくまで道路と同じく、当該箇所がその時点で、その状態で瑕疵があるかどうか、つまり通常有すべき安全性を備えているかどうか、を検討すべきであり、それで十分である。もつとも、突発的事故による堤防の損傷を突貫工事で改修していたが間に合わなかつたというような時間的、純技術的にみて、改修不可能であつたという場合には不可抗力として免責されると考えるべきであるが、本件はこのような場合ではなく、被告らの河川行政の怠慢によつて未改修であつたのであるから、免責されないことは明白である。

また被告らは、新河川法施行以来六年もの長期間何ら志登茂川の本件瑕疵区間の改修を目的とする河川改修計画を策定しないまま放置し、昭和四七年まで基準点志登茂川今井橋における計画高水流量の確定さえ行わなかつたのであるから、すでに遅きに失している改修計画の途上である旨主張しても、何ら免責されるものではない。

もし、改修計画が河川改修をすべき時期であつた遅くとも昭和三八年から昭和四〇年にかけて策定されてさえいたならば、本件水害時までに十分のゆとりをもつて本件瑕疵区間の改修は完了していたものである。

5  用地取得の困難性の主張について

(一) 被告らは、河川改修のための用地取得が困難であり、従つて河川の改修に日時がかかることはやむを得ないと主張するが、本件では、用地取得ができなかつたから早期改修が不可能であつたというような事実経過でなかつたことは明らかである。

(二) また被告らは、用地取得の困難性を主張するが、第一に、被告らは河川法施行以来六年間の長きにわたり志登茂川の河道拡幅を目的とする河川改修計画を策定しないまま放置し、昭和四七年まで志登茂川の平野井堰上流の計画高水流量の決定さえ行わなかつたのであるから、最近の用地取得の困難性を主張することはできない。つまり、改修計画がもつと早期に策されていれば、用地取得の問題も本件水害時までに解消していたとみることもできるのであり、被告らの改修計画の大幅な遅滞こそが問題とされるべきであるからである。

第二に、被告らは昭和四七年に志登茂川改修計画を立案した後も、これを単なる机上プランに終らせ、本件水害の被災害者である原告らが本件訴訟をするまで、本格的に用地取得にとりかからなかつたのであるから、用地取得の困難性を主張することはできない。

第三に、被告らが用地取得に本格的に取り組んだのは、本件訴訟提起後のことであり、しかも、本件訴訟提起後一年もたたない間に、用地取得のほとんどを完了した実績からすれば、用地取得の困難性とは実は被告らのやる気の問題であつて自らの怠慢を免責の理由にしようとしているにすぎない。

6  他地域の水害との関係について

被告らは、本件水害時の豪雨による災害は、東海地方に大きな被害をもたらしているし、また、県の被害額は、古今未曽有の被害を出した昭和三四年九月の伊勢湾台風に次ぐ大きなものとなつたと主張し、他地域の被害についても説明をなしているが、他の地域における浸水被害と本件漫水被害とがいかなる意味において関連性があり、それが法的にいかなる意味を持つのかはまつたく不明である。

一つの水害の発生については、その被害関連地域の降雨量、地理的条件(地形・地質・山林の状況・遊水池や水田の存否等)、河川の状況(川床の勾配・川幅・河川の改修の進行度合・浚渫の程度等)、更に、防災施設の存否などの諸要因の検討によつて、その原因を究明すべきであることは多言するまでもない。各浸水地域の水害についてその原因を個別に具体的に検討を加えることが重要なのであつて、他地域で、いつ、どんな水害が発生したかは本件浸水とは何の関係もないことである。

7  道路と河川の管理責任の差異について

被告らは、河川が自然公物であることを前提とし、このことから、河川管理者の責任は人工公物たる道路のそれと異なるとしているが、国家賠償法二条は、河川も道路も管理の故に責任を認めるものであつて、危険性の発生縁由により区別されるものでは決してないのである。

つまり、国家賠償法二条は、公の行政作用に基づく被害の救済を国民の権利保護の立場から規定した憲法第一七条にその立法趣旨を求めることができるのであり、とくに過去の幾多の先進的な判例に明らかなごとく、被害者の損害賠償請求を認容することにより、その後の行政に大きな転換を迫ることにもつながるのであり、かかる国家賠償法二条の役割からしても、道路と河川の管理責任を区別視する必要はまつたくないというべきである。

8  損益相殺について

原告川村義満ほか一一名は、昭和四六年に二度にわたつて水害の被害を受け、被告三重県に対し、志登茂川の治水事業の早期完成のほか、被災住宅の修繕等を陳情したが、床及び壁の張替えばかりでなく、畳、ふすまを除く被告ら主張の修繕箇所はそのまま放置されていたところ、本件水害後に、この修繕箇所について修復されただけであり、本件水害による被害の回復ではない。

また、被告三重県が汚損畳を除去したのではなく、原告川村義満らが行つたのであり、同被告は畳の仮置きもしていない。

そもそも、原告川村義満らは所有物に対する損害を請求しているのではなく、本件水害による生活侵害によつて被つた精神上の苦痛に対する慰藉料を請求しているから、損害はてん補されていないのである。

仮に、被告三重県が、右原告らに対しては、本件水害による他の被災者が平均的に必要であつた期間よりも早く畳を入れたと主張しているのであれば、右原告らは利益をえたといいうるかも知れないが、右原告らの浸水被害は床上三〇ないし五〇cmという極めて甚大なものであるから、右利益はほとんど影響のないものである。

また、たとえ本件水害に起因する住宅の汚損の修繕であつても、入居者の責に帰すべき事由によらない汚損の修繕費の負担を、損益相殺の名において実質的に原告らに帰せしめることは、家賃以外の金品徴収を禁止する公営住宅法一四条に違反してゆるされないところである。

第三証拠〈省略〉

理由

一  原告らの被災事実について

1昭和四九年七月二四日午後一時から同月二五日午前一〇時までの間、津市内の一身田地区、栗真地区、白塚地区、江戸橋地区に豪雨があり、そのため右各地区が浸水し、一身田地区において床上浸水一三〇六戸、床下浸水六二五戸、栗真地区において床上浸水七四七戸、床下浸水二九九戸、白塚地区において床上浸水七二六戸、床下浸水九五八戸の各被害が発生したことは当事者間に争いがない。

2右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると次の事実が認められ、他にこれを左右するに足りる証拠はない(総合認定であるから、認定に反する部分はいずれも措信しない趣旨である。以下同じ。)。

別紙第一原告目録(一)ないし(三)記載の原告らはいずれも本件水害当時、同目録記載の住所に居住(但し、原告が法人等である場合は右住所が本店または主たる事務所の所在地である。なお、別紙第一原告目録(三)6番原告ぜにや食品株式会社は右目録記載の住所に本店があるが、同目録(三)5番同有限会社ぜにやセンターの本店所在地に食品加工工場があつた。)していたものであり、いずれも本件豪雨によつて、昭和四九年七月二五日から翌二六日にかけて床下浸水ないし床上一二〇cmの浸水被害を受け、その浸水の程度は一覧表(一)ないし(三)記載のとおりである。

二  志登茂川の流域・特性・改修工事・一身田地区の特質・水害

(本件以前のもの)等について

1次の事実は当事者間に争いがない。

(一)  志登茂川は前田川、中の川、横川、毛無川及び五六川を合わせて一つの水系を構成して伊勢湾に注いでいること、志登茂川水系はその北側を亀山市及び鈴鹿市を東流する中ノ川に、その南西側を津市及び三重県安芸郡を南東流する安濃川に、またその東側を伊勢湾に囲まれた三角形状の流域をもつこと、志登茂川は流域面積が46.89km2、幹線河道が約14.5Kmであること、志登茂川の起点はかんがい用溜池である横山池からの用水路に接続し、最上流部が山間部になく、水田地帯から発し、下流が沖積地帯になつていること、本件水害当時今井井堰から前田川合流点までは護岸工事がなされているとはいえその形状からみて自然河川というべき状況にあり、志登茂川は三重県安芸郡芸濃町大字椋本所在の頭首工から海に至る部分が原告ら主張の経緯により二級河川に指定されていること、毛無川は農業用溜池から発していること、河口部改修と築堤の範囲及び下流流域内の状況は請求原因2・(一)(1)のとおりであること、昭和三七年ころ一身田団地が造成されたこと、今井井堰及び平野井堰の流下能力が五〇m3/sであること。

(二)  請求原因2・(三)の九回の水害発生並びにうち昭和四六年八月三〇日、同年九月二六日及び同四九年七月二五日の三回については一身田地区にも水害が発生し、かつ、その原因が志登茂川本川の溢水によるものであること、後二者の場合の被害戸数は原告ら主張のとおりであること、発生原因は別として同三四年八月一四日及び同年九月二六日の二回についても一身田地区に水害が発生したこと。

2右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると後記の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  志登茂川の流域及びその特性について

(1) 志登茂川は前田川、中の川、横川、毛無川及び五六川を合わせて一つの水系を構成し、その流域面積は46.89km2、幹線河道延長は約14.5Kmの河川であり、その水系及び流域は、別図一〈省略〉のとおりである。

また、志登茂川は、河川の起点がかんがい用溜池である横山池からの用水路に接続し、下流は伊勢湾に注いでいるが、別図一からも明らかなとおり、その北側は亀山市及び鈴鹿市を東流する中ノ川に、南西側は津市及び三重県安芸郡を南東流する安濃川に、そして東側は伊勢湾に囲まれており、その流域は三角形状をなしている。

そして志登茂川は最上流部が山間地ではなく水田地帯から発している点で一般の河川とは異なる流域構成を有する。

ところで、志登茂川は河川起点から三重大学附属農場(大谷池)付近までの上流部、三重大学附属農場(大谷池)付近から古川橋までの中流部、古川橋から河口までの下流部に区分できるところ、上流部は横山池及び三谷池からの用水路を合わせて水田地帯を貫流し、勾配が約1/180、河幅がおおむね1.5ないし3mであり、農業用水路としての性格が強い。中流部は畑作地帯である洪積台地を著しく開析し、勾配が約1/170で小刻みな蛇行を繰り返し、河幅はおおむね五ないし八mであり、中流部の下位部で右支川である中の川が合流する。その下流部は上位部で左支川である前田川が、下位部で左支川の横川、右支川の毛無川及び五六川がそれぞれ合流し、勾配は平野井堰までが約1/500、平野井堰より下流では1/1000以下となり、河幅は古川橋から平野井堰までが一五ないし二〇m(国鉄紀勢本線鉄橋下で約一一m)、平野井堰から横川合流点までが約一五ないし二五m、横川合流点から毛無川及び五六川合流点下の江戸橋付近までが約二五ないし七二m、これから下流では約一〇〇ないし一四七m、最大一七八mとなり伊勢湾に流入している。

このように、志登茂川の特徴は、山岳部を水源に持たず、しかも勾配が急な、上・中流部に比し下流部に入ると急に河床勾配が減少する中小規模の河川であるという点にある。

(2) また志登茂川は山地を流域に有しないため上・中流部における洪積台地が土砂供給地であるが、その土砂運搬及び堆積能力は大きくない。また、中流部の高野尾付近では開析谷を発達させ、中流部から下流部にかけて河岸段丘を形成しているが、この浸食帯は下流部の川北橋付近まで連続していて、平野井堰付近に至つて堆積帯に移行している。このように、志登茂川は洪水時における土砂供給量がきわめて少いため、本川においては顕著な河床上昇はほとんど認められない。

(3) ところで、志登茂川は、昭和四九年七月当時、上流部から中流部のなかばまではほぼ直進河道で安定しているが、その後、前田川合流点付近まで蛇行が激しくなつて河道にも狭窄部が多くあつた。

また、川北橋から平野井堰にかけては前記のとおり急に河川勾配が減少し、今井井堰から平野井堰にかけては、その直上流において志登茂川の最大支川である前田川が合流するにもかかわらず、五〇m3/sしか通水能力がなかつた。

そして、前田川から今井井堰にかけては堤防といえるものは護岸事業(後記(四)のとおり)により堤高0.5m、天端幅一m位の水田の畦畔大程度のものがあつた程度で、むしろ自然河川ともいうべき状況であつたことなどの特性があつた。このため志登茂川は、昭和四九年七月当時、国鉄紀勢本線鉄橋付近から平野井堰にかけての部分が洪水による溢流が発生しやすい地帯となつていた。

(二)  志登茂川の水利について

志登茂川流域の農業開発は、六、七世紀の律令期に条理区画を伴つた水田開発がなされ、小規模な井堰や溜池が築造されたと推測されるが、その後、戦国期から江戸期前半である一七〇〇年ころにかけて大規模な新田開発が行われ、それに伴つて井堰、溜池の築造、用水路の開削がなされた。そして、水源に恵まれない地域は、未墾地として松林、雑木林となつていたが、幕末ころ横山池が築造されると上流部が開墾され、更に一九三八年から一九四〇年にかけて右松林約四〇ヘクタールが燃料用材として伐採され、その跡地が畑地となり、その後苗木、植木、蔬菜畑となつた。

右のとおり、志登茂川流域の大半の水田は近世に開発されたが、その水源となつたのは、上・下流域においては主として諸所に散在する数多くの溜池であり、中・下流においては主として志登茂川であつた。そのため志登茂川本川には取水堰が古くから数多く設置されており、現在でも前記今井井堰及び平野井堰をはじめ三六か所を数えるほどである。

そして、志登茂川に設置されている井堰のうち、中・下流に設置されているものは、本川の中・下流部が前記のとおり浸食作用が著しく、かんがいをなすべき田面位に比較して河床がかなり低位にあり、しかも夏場の干天時における本川の流量が少なくなることもあつて、浸水期に用水を河道貯留する機能を有している。

(三)  志登茂川における治水理念について

前記のとおり、志登茂川は溢水しやすい河川特性を有していたが、古くから農業用水として利用されてきたため、三重県知事が後記の志登茂川の全体計画を策定するまでは、その流域が農業地帯であり、河水が農業用水として利用されていることをあくまでも基本とする治水理念のもとに管理されてきた。すなわち、洪水を防ぐ目的で、河川堤防を大きくしたり、河幅を拡張したりするのは費用、労力がかかるばかりでなく、拡張の分だけ既存の農地を取り潰さざるをえなくなるのに対し、それをせずに水田地帯に溢水流を湛水させるのであれば、それが一定水深で、かつ一定時間である限り、稲の収穫にとつてさしたる障害にはならないから、あえて築堤、河幅の拡張をせずに無堤地帯から溢水させ、本川の流水とともに溢水流を川に再流入させるという治水理念が採用されていた。

このことは、たとえば川北橋付近の無堤地帯からの溢水流が流下する地域にあたる平野井堰上流の右岸では、昭和四〇年まで約一五〇mにわたつて人為的に天端が切り下げられて、右溢水流が本川に再流入しやすいように無堤部にされていたこと(なお、右無堤部は、昭和四〇年に志登茂川災害関連工事として築堤され、右溢水流の本川への自然再流入は不可能となつたが、ここに築堤して溢水流の自然再流入を不可能ならしめたのはいかなる理念によるのか必ずしも明らかではない。)、あるいは後記(四)における本川の改修の経緯からも窺知しうるところである。

(四)  志登茂川の改修の経緯(全体計画策定前)について

(1) 川北橋付近から平野井堰に至る1.5Kmについては、大正九年から昭和八年にかけて設立されていた耕地整理組合によつて、今井井堰から極楽橋にかけての左岸堤防約四四〇m(それまで水田の畦畔程度のものであり、しかも左岸堤防は右岸よりも約六〇cm位低かつたと推測される。)がかさ上げされたうえ、護岸の基礎が補強され、平野井堰の左岸約一六〇mも従前の堤防が堤外地を広く取り込んでいたのでこれを廃止し、新たに旧堤防よりも平均1.77m高く築堤された。また、このとき、極楽橋から平野井堰まで左岸堤防の一部で法面下部をコンクリートで被覆する護岸工事が施工され、支川の横川、毛無川、五六川についても河道の修正、拡幅が行われ、特に毛無川については津市一身田町の栄町付近から下流部が左右に屈曲していたところ、河幅を拡大するとともに直線化された。

しかしながら、右改修等は、地積増歩(余剰地となつた河川敷の開田)、農業用水路の改良、無堤部のかさ上げによる水害回避等が事業の主眼であつたので、河川の洪水処理能力を増強するような工事はなされなかつた。

(2) 志登茂川は、昭和三四年度から同三八年度まで、平野井堰から河口部までの部分が伊勢湾等の高潮対策事業の一環として改修され、更に同三八年度から同四〇年度にかけて国鉄紀勢本線鉄橋から今井井堰までの区間が災害関連事業により、同四〇年度から同四三年度にかけて今井井堰から平野井堰までの区間が同じく災害関連事業としてそれぞれ改修工事が実施された(各改修工事がなされたことは当事者間に争いがない。)。

ちなみに右改修工事により、前記のとおりすでにコンクリート護岸された一部を除いて、国鉄紀勢本線鉄橋下から平野井堰の全区間にわたつて堤防の表法面下部をコンクリートブロックで、また法面上部及び天端を空石積みすることによつて護岸された。そして、右護岸工事に際しては、無堤部や低位部では周辺の堤高を基準として盛土が行われ、従前、無堤部であつた平野井堰右岸の一五〇mの区間は約七〇cm盛土され、同じく無堤部であつた今井井堰上流の両岸は堤高0.5m、天端幅一m位の水田の畦畔を少し大きくした程度ながら築堤された。

なお、右護岸工事において実施された空石積みは、人頭大の石頭を堤防の表面に埋め込む工事であつて、越流した水流による法面の崩壊を防止する目的で行われ、堤防からの溢水を前提としている工事であつたと推測される。

ところで、右工事によつて、志登茂川の堤高は多少の高低はあるが、今井井堰上流部でT・P3.5m、今井井堰から極楽橋までがT・P3.2m、極楽橋から平野井堰までがT・P3.1m程度となつた。

しかしながら、右各改修工事においては、河道断面の拡幅あるいは流路修正など通水能力の増大を計る洪水処理を直接の目的とする改修工事はなされず、もとより計画高水流量等が定められたりするなど河川法一六条所定の工事実施基本計画またはこれに類するような改修計画がたてられたうえ、これに基づいてなされたわけではなく、右の計画高水流量を定めた改修工事計画は、後記のとおり、昭和四七年度になつて初めてたてられたのである。

(五)  一身田地区の特質について

一身田地区ことに一身田町は志登茂川右岸南方約三〇〇mの地点を志登茂川とほぼ平行に東西に走る県道津・関線(昭和二九年ころ開設された。)と津市管理の毛無川に囲まれた地域であつて、真宗高田派本山専修寺の門前町として発展した土地で、地盤高はT・P一ないし三m程度の低地である。同地区においては戦前から昭和三五年ころまでは住宅地としての開発はほとんど進まなかつたが、同三〇年代後半に入り三重県土地開発公社によるいわゆる県営一身田団地の造成をはじめ農地の宅地化(このことは従前水田地帯が有している遊水地帯としての機能が低下していくことを意味する。)、人口増など都市化傾向が顕著となつてきた。これを数量的にみれば次表のとおりであり、なお農地転用許可についてはこの他大臣許可にかかる分が二二万四七〇〇m2あり、これを加えると七〇万一七七八m2となる(ちなみに被告らのいうところに従えば右面積は一身田地区面積の約一〇パーセントに相当するということである。)。〈農地転用許可状況表略〉

(六)  本件以前の一身田町の浸水被害について

一身田町は昭和三四年八月一四日の台風七号によるものをはじめ、請求原因2・(三)のとおり本件を含め九回の浸水被害を受けているが、そのうち本件及び昭和四六年の二回のほか、昭和三四年八月一四日の被害も志登茂川右岸からの溢水が主たる原因であり、同年九月二六日の被害もこれが原因の一つとなつているものと認められ、各浸水被害の態様は請求原因2・(三)掲記の表記載のとおりであり、このうちでも昭和三四年八月一四日のそれは、当時の世帯数が昭和四九年度二八一六世帯の約1/2の一二四九世帯であることを考えると被害の重さは右のうち最大のものであつたと認められる。

しかして、右浸水時の溢水流の流下方向については、前記二・2・(三)及び(四)で認定したところからすれば、かつては志登茂川の今井堰付近の右岸から溢水した場合には、おおむねそれが小洪水であれば、志登茂川本川へ再流入し、大洪水であれば地形勾配にそつて大部分は一身田平野方面へ流下して水田地帯を湛水していたものが、県道津・関線の開設後は、これと志登茂川右岸堤間の水田地帯が遊水池となり、更に昭和三七年ころいわゆる県営一身田団地が建設され、その後右岸の溢流堤が廃止された後は、右遊水池部分は貯水池と化し、右岸溢水量がこの貯水容量を上まわるときは、県道津・関線ぞいに一面に越流し、これが一身田団地により流路を妨げられる結果、道路にそつて市街地全域に溢水流が侵入するようになつたものと推定される。そして、右の志登茂川の溢水の原因は、いずれも今井井堰から平野井堰における通水能力が五〇m3/sにすぎず、高水流量に比してはなはだ劣つた状態にあつたことによるものと推認できる。

(七)  昭和四六年の水害(二回)以後の河川管理者の対応について

(1) 一身田地区について昭和四五年度に都市計画法七条に基づく区域指定に関する都市計画が定められるなど都市化の方向が明確化したことともに、同四六年八月及び同年九月の二度にわたつて洪水の被害を受けたことを機会に志登茂川について、県担当部局において同四七年度から中小河川改修事業としての全体計画を策定実施することとし、なお、これとともに過渡的対策事業も並行して行うことにした。

右全体計画によれば、志登茂川の今井橋、横川合流点、毛無川合流点をそれぞれ基準点として、一〇〇年確率の将来計画、三〇年確率の暫定計画をたて、それぞれ右確率による計画高水流量が定められているが、これによると今井橋においては、一〇〇年確率で四〇〇m3/s、三〇〇年確率で三〇〇m2/s画高水流量とされた。ちなみに右計画は、全体計画と称せられているが、河川法一六条所定の工事実施基本計画ではなく、いわばこれのもとになる内容を有するものである。そして、右全体計画は昭和四七年六月に確定され、以後、これによつて志登茂川の改修工事が実施されることになつた。

なお、右昭和四六年の二回にわたる水害の後、同年九月ころ、一身田地区の被災者は被災者同盟を結成し、県知事に対し、水害防止のため志登茂川の改修を求める申入をしている。

(2) ところで、前記過渡的対策事業としてなされたのは、昭和四七年七月から同年一二月にかけて今井井堰に越流堤を設置するとともに平野井堰の越流堤を従前の約二倍のものにするというものであり、それぞれ一m3/s及び一一m3/sの流下流量とされ、これにより従前に比し流下流量の増大が計られた(なお、このとき右岸と県道津・関線とに囲まれた水田地帯の排水をよくするために平野井堰上流の堤防を切下げようとしたが、関係地主の協力がえられずに実現できなかつた。)。

また、前記中小河川改修事業は国庫補助事業とされたうえ、県の河川改修事業の第四次五か年計画の対象とされ、前田川合流点付近から毛無川合流点付近までの四三二〇m及び毛無川について大沢池から志登茂川合流点までの三三二〇mについて河道の直線化、河幅拡張、堤防盛土、農業用井堰の改築、橋梁のかけ替え等が計画されたが、一身田地区の水害対策上必要であるとして計画された毛無川の改修は、毛無川が市街地を流れていることから河幅拡張が困難であるため、結局、人家集中部分を外して毛無川の支川である五六川の改修を含めた改修計画がたてられた。

そして、第一期計画としては、昭和四七年から同四九年まで事業費三億円をかけ前田川合流点付近から横川合流点までの三一〇〇mの区間が対象とされ、流下能力を増すために、平野井堰の改築が計画され、そのための地質調査、構造物の設計がなされ、これと並行して平野井堰の上流部の河幅拡張が計画され、用地買収の交渉が行われたが、これは予定どおりには達成できなかつた。しかし、昭和五〇年以降、農業用水の水利権利者等との調整が行われ、平野井堰の改築が施工され、またその上流の用地買収も実施され、更に、同五一、五二年と上流に向つて用地買収、護岸工事、橋梁かけ替えが実施された。なお、その後昭和五一年から国鉄紀勢本線鉄橋(前田川合流点)から横川合流点までの三一〇〇mの区間については河川激甚災害対策特別緊急事業とされ、同五三年度までに暫定流下流量一五〇m3/s断面が概成されることとされて工事が進められ、現在も右全体計画に基づいて河幅の拡張及び護岸工事等が実施されている。

三  本件水害について

1本件水害時の雨量等について

本件水害時である昭和四九年七月二四日午後一時から翌二五日午前一〇時までの間に、津市一身田地区を含む津市全域に降雨があり、その雨量は三重大学附属農場で325.7mm、三重大学農学部で355.5mm、津地方気象台で330.5mmであつたこと、三重大学附属農場における七月二四日午後一〇時から翌二五日午前九時までの時間雨量は一〇mmをこえており、最大時間雨量は、二五日午前七時から八時までの88.5mmであること、洪水との関係で重要である洪水到達時間内降雨量は、本件水害の場合、洪水到達時間を2.5時間とすると121.0mmであり、この生起確率は二〇年に一度のものであることは、いずれも当事者間に争いがない。

しかして、〈証拠〉によれば、津地方気象台における日雨量は三三一mmの極値三一二mmを更新したが、明治三八年から昭和四九年までの観測結果(但し、明治四一年から大正元年までの分を除く。)からすると、本件水害時の降雨量は、一二〇分間雨量が109.5mmで第四位、一五〇分間及び一八〇分間雨量がそれぞれ121.0mm及び134.0mmで各第五位にとどまるものであつたことが認められる。

なお、本件水害時における高水流量については、水害当時、これを実際に測定した資料がないため降雨強度、流域面積、地形条件等から計算したり、聞き取りにより氾濫水が道路等を越流した幅及びその水深等を調査したうえ、それをもとに計算するとかしなければならない。

そして、洪水到達時間を2.5時間とし、降雨実績から洪水到達時間内の平均降雨強度を求め、流出係数を現況推定の0.60を下限値、改修計画の0.76上限値としてこの範囲での今井井堰地点での高水流量を合理式により推定計算すると、一九〇m3/sないし二四一m3/sとなるとされている(この計算自体は当事者間に争いがない。)。

しかし、このようにして計算した結果も推測でしかなく、しかも右計算過程においていかなる係数を採るかによつても三〇パーセント位の増減が簡単に生じる(前記甲第二四号証)のであるから、右計算結果も一応のものと評価すべきである。

ところで、今井橋付近のピーク時における高水流量について証拠上表われている計算結果は、三重大学木本凱夫論文(前記甲第二四号証)では三五〇m3/s、名古屋工業大学細井正延論文(前記乙第五一号証)では320.7m3/s、京都教育大学水山高幸論文(前記甲第二三号証)では二五〇m3/s、三重大学水谷正一論文(前記甲第二五号証)では二四四m3/sとそれぞれ異なり、その差も決して少なくないのであるが、右水谷論文によると、志登茂川における一〇〇年、三〇年及び五年確率の各高水流量はそれぞれ四〇七m3/s、二八五m3/s及び一七七m3/sであり、前記のとおり、三重県知事が志登茂川の今井橋を基準点として策定した全体計画における計画高水流量でも一〇〇年確率で四〇〇m3/s、暫定計画とした三〇年確率で三〇〇m3/sであるから、右各推定高水流量はいずれも三〇年確率前後ということになる。

つまり、右各論文がそれぞれ計算の結果推測している本件水害時のピーク時の高水流量は、いずれも志登茂川の今井橋付近において一〇〇年確率(四〇〇m3/s)で計画高水流量が計画され、それに従つた改修工事が施工されていれば安全に流下しうる流量であり、同じく三〇年確率(三〇〇m3/s)で計画高水流量が計画され、改修工事がなされていたとしても、単純に計算して最大値50ないし20.7m3/sが溢水する計算になるわけであり、これはピーク時における溢水量であることから考えても、本件水害におけるような大規模な被害は発生しなかつたものと推認されるのである。

2志登茂川の溢水と浸水状況について

(一)  本件水害時に志登茂川の今井橋付近から左右両岸に溢水し、右岸においては、溢水した水の一部が県道津・関線と志登茂川右岸堤防との間の水田地帯(なお、この部分の湛水量は約三〇万m2以上である。)に湛水したうえ、昭和四九年七月二五日午前七時二五分ころ(以下2、3項中月日のみを記す場合は、昭和四九年度をいう。)、県道上の遮水壁を越流し、右岸の溢水量の一部は高田高校西側から右県道を越流して南下し、一身田市街地に流入したこと、また左岸においては、溢水流が一身田豊野地内を経て、横川を越えて栗真、白塚、江戸橋地区に流下したこと、平野井堰上流の左岸堤防が一部決壊したことはいずれも当事者間に争いがない。

(二)  前掲各争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると後記の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない(なお、本項及び後記3項における志登茂川と毛無川の溢水と浸水状況については、すでに前記高水流量における各データの差異からも明らかなとおり、証拠上定量的にかつ一義的にこれをとらえることは困難であり、各証拠を総合し定性的な認定説示にとどめざるをえないものである。)。

(1) 原告ら居住の志登茂川流域である津市一身田地区には七月二四日午後一時ころから降雨があり、志登茂川の流量も漸次増加し、同月二五日未明から午前六時ころまでの間に今井橋付近から左右両岸に溢水(同橋での流下能力は九三m3/sと推計できるのでこれをこえる流量は同橋上流付近から、また同橋直下流右岸今井井堰の流下能力は五〇m3/sなのでこれをこえる流量は、主として左岸農業用水路にそつて溢水)が始まり、午前七時半ころから同八時半ころまでの間にピークをむかえ同一一時三〇分ころに同所付近からの溢水が終つた。

(2) 左岸側の溢水流は、今井橋から北に向う道路を越流してあるいは用水路ぞいに溢水して一身田豊野地区の水田地帯を通り、横川も越流して津市栗真地区、白塚地区、江戸橋地区に流入した。

ちなみに志登茂川左岸津市栗真中山に居住の原告奥村進方においては、七月二五日午前六時一五分ころから西方(志登茂川左岸水田地帯)から水面が少し盛り上つて流れてくる様子が望見され、午前七時ころから床上に浸水し、同八時過ぎころに最高位に五二cmとなり、その状態が二時間半続いて、約一八時間後の翌二六日に至りようやく床上から水がひいていつた。

また、左岸においては、平野井堰の上流部において、右溢水流が堤防の堤内地側に法肩を洗つてコンクリート護岸上の盛土部分を流失させたため、二か所にわたつて幅は小さいが破堤し、その部分からの溢水流も栗真地区、白塚地区に流入した。

ところで、栗真地区及び白塚地区は標高2.0m程度の海岸砂丘上にあるのであるが、河口部に設置されている防潮堤によつて右溢水流を排水できず、かえつて長時間の浸水被害を受けることになつてしまつた。

(3) 右岸の溢水流は、その大部分が県道津・関線南側にある高田高校の西側から今井橋に至る道路を越えて、志登茂川右岸と右県道とに囲まれた水田地帯に流入し、右溢水流の他の一部は、高田高校西側の十字路及びそこから西に向う右県道を越流して南側の水田地帯及び市街地に流入した。

ところで右水田地帯に貯留された溢水流は、その一部が県道の路面下に設置されている一〇か所の樋管を通水して南側の排水路に流入したほか、県道上北側に設置されている遮水壁(T・P3.5m)の開口部(右県道が他の南北の道路と交差する部分。)から、七月二五日午前六時五〇分ころから同日午後一時二〇分ころまでにわたつて、県道を越流して南側に流下し、更にその間午前七時過ぎころから同九時三〇分ころまでの間には右遮水壁を越流して大量に一身田の市街地に流入した。

そして、右水田地帯に貯留された溢水は右越流が終つた後も右樋管等から徐々に県道南側の排水路等を経て市街地へ流入していつた。

なお前記の遮水壁は県道津・関線上の高田高校グラウンド東側付近から三重県住宅東側付近にかけて、北側すなわち志登茂川寄り路肩に高さ平均四五cmで設置されているが、これは昭和四七年に津市が県道津・関線を越流する洪水を抑え、遊水池となる同県道北側の水田地帯の貯水量を増加する目的で設置したものである。

(4) ところで一身田町は、前記のように南北を毛無川と県道津・関線に、また、ほぼ東西を国鉄伊勢線と今井橋及び桜橋を結ぶ道路によつて囲まれた地区であるが、中央部には西側に専修寺、中央に高田慈光院、東側に一身田団地があり、更にその南北にもそれぞれ市街地が拡がつている。

また一身田町の地形は、後記のとおり、全体としては北西の高田高校付近が高く、南東の栄町付近が低くなつており、その中でも専修寺及び一身田団地はその周囲よりも高くなつており、その状況は別図二〈省略〉(甲第三四号証等の基礎となつた津都市計画区域地図・弁論の全趣旨によれば同図の正確性については当事者間に争いがないものと認められる。)上に表示された標高(T・Pにより表示。単位m)より明らかである。

すなわち、県道津・関線の標高は高田高校西側付近でT・P3.55mであり、順次東に向つていくと、同校グラウンド西側付近でT・P3.5m、その東側付近でT・P3.1m高田高校グラウンド東側から順次T・P2.9m、T・P3.5m、原告石丸モータースこと石丸増歳方前付近でT・P3.2m、三重県営一身田団地付近でT・P3.2mとなつている。

そして、高田高校西側の県道付近(T・P3.55m)から毛無川上の桜橋付近(T・P4.68m)に至る道路上の標高は、専修寺西側付近でT・P3.02m、安楽橋付近でT・P3.58mとなつており、また県道津・関線から一身田郵便局西側に至る道路の標高をみると、右県道上でT・P3.2m、以下、順に2.3m、2.1mと下がり、一身田郵便局西側付近で1.8mとなつているのである。更に、右安楽橋(T・P3.58m)から東に県道草生・窪田・津線に沿つて順次道路上の標高をみると、知慧光院付近で2.8m、高田青少年会館付近で2.4m、慈智院付近で2.3mその東で2.2mと徐々に下つて行き、右一身田郵便局付近で1.8mとなり、次いで国鉄伊勢線方向に1.8m、1.47mと更に下つている。

このように一身田地区においては、一身田郵便局から栄町の東側にかけるあたりが最も低い地域となつている。また専修寺は、一身田地区の高台に位置し、その主要建造物はいずれも盛土の上に建てられており、志登茂川方面に対しては土塁が築かれている。

そこで、(3)で述べた一身田市街地に溢水した水の流下方向を検討すると、そのうち桜橋方向へ流れていつた水の主流は安楽橋付近から東に進路を変え、高田本山前の通りを宮之前、栄町方面へ進み一身田平野へと、安楽橋から南へ流下した水は主として向拝前、南町、仲の町から常盤橋、緑橋方向へと流下し、また県道津・関線により水田地帯に貯留され、越流し、また樋管等により市街地へ流入してきた水は昭和通り、東町などの街路から一身田団地を通り、栄町から一身田平野へと流下し、また一部は常盤橋、二百石西橋方向へと流下していつたものであり、これらの水流は常盤橋、緑橋、二百石西橋付近では毛無川を越流し毛無川からの溢水、内水と合して一身田大古曽から一身田中野方向へと流下していつた。

(5) そこで、以上のところを前提に地域別に更に溢水状況について検討する。

(イ) まず県道津・関線北側においては、七月二五日未明ころから志登茂川が今井橋上流付近で溢水するとともに県道北側の水田地帯への溢水流の流入が始まり、それとともに床下浸水し、同日午前八時から同九時ころにかけて最高水位となつたが、同日昼すぎころ右県道が見え始めた。

(ロ) 次に、県道津・関線と専修寺及び高田慈光院にはさまれた地区においては、地形上右県道上の遮水壁の開口部及び樋管からの流入水、高田高校西側から南下した溢水流とによつて七月二五日午前六時五〇分ころにはすでに床下浸水被害を受けていたとみられるところ、午前七時三〇分ころ、遊水池の湛水が右遮水壁を越流するとともに床上浸水被害を受けたものと推認される。

(ハ) そして、一身田地区東側の一身田団地においては、七月二五日午前七時すぎころから急に浸水し、一〇分間位の間に床上浸水被害を受け午前九時ころピークに達している。

(ニ) また、高田慈光院周辺では、七月二五日午前六時ころ排水路が満水となつて道路に溢れ出し、土台が道路と同じ位の家屋では同六時三〇分ころから浸水が始まり同七時ころには床下位までに水位が上り、土台の低い家では一五時間近く浸水被害を受けた。

(ホ) ところで、一身田地区において最も低い地帯となつている栄町周辺(T・P1.8m)では所によつては七月二五日午前四時ころにはすでに床下浸水となり、午前五時三〇分ころには路上一〇cm位の冠水がみられ、また同六時三〇分ころには床上一〇cmの浸水被害を受けた所もあつたが、浸水のピークは同七時から八時すぎころであり、その後、一昼夜にわたつて浸水被害を受けた者もあつた。

ところで、右の栄町付近の居宅(T・P1.8m)は七月二五日午前六時三〇分ころ床上一〇cmの浸水被害を受け、また同時刻ころ(ニ)の高田慈光院周辺では浸水がはじまつたが、このころには、前記のとおりいまだ県道津・関線北側の遊水池の湛水は遮水壁を越流していないから、その浸水は右遊水池の湛水のうち、遮水壁の間及び樋管を通じて南側に流下したもの、志登茂川の溢水流のうち高田高校西側から市街地に流入したもの、内水(降雨)、毛無川の溢水流等が原因と考えられるので、次に毛無川の溢水、内水の影響等について検討する。

3本件水害における毛無川の溢水と浸水状況について

(一)  毛無川の大沢池から国鉄紀勢本線橋梁までの間は、主として水田地帯であり、更に右橋梁から下流の二百石橋までの流域は一身田市街地を形成していること、毛無川の流下能力は、大沢池から右橋梁までの区間が約二ないし一〇m3/s、右橋梁から常盤橋までの区間が約五ないし一八m3/sしかないため、本件水害時以前からも両岸への溢水を繰り返していたこと、本件水害時における大沢池と嘉満池からの流出量は最大値約五五m3/sであり、右流下能力をこえていたためその上・中流で左右両岸に溢水したことは当事者間に争いがない。

(二)  右争いのない事実に前認定の諸事実と〈証拠〉を総合すると後記の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 毛無川は志登茂川の支川であり、その流域面積は6.59km2である。そして、毛無川の中流部には大沢池(T・P18.4m)があり、豪雨時に同池から上流域に降つた雨はまず同池に流入し、ある程度の流量調節が行われたうえ、同池下流端の余水吐から毛無川に流下するが、右余水吐のすぐ下流右岸側からは嘉満池を経て支川が合流している。

右大沢池及び嘉満池の上流域は丘陵地帯となつているが、右合流点から国鉄紀勢本線橋梁までの間は、水田地帯になつており、T・P一二、三mから四、五mの標高差がある。そして、その下流は一身田市街地になつており、市街地を経て一身田中野地区にかけてその標高はT・P四、五mから二、三mに下がるのであつて、その状況は、大沢池及び嘉満池の周辺の状況を含めて、別図三〈省略〉(甲第一六号証、乙第二五号証及び第二七号証等の基礎となつた津市都市計画図1・弁論の全趣旨によれば同図の成立及び正確性については当事者間に争いがないものと認められる。)及び別図二上に表示されたとおりである。

ところで、毛無川は、昭和二九年八月一日以来、津市長が管理してきたが、同五〇年一〇月六日以降、大沢池から津市一身田町大字中野の五六川との合流点までの区間は河川法上の準用河川となつている。なお、右合流点から志登茂川との合流点までの間は昭和二五年一一月一七日旧河川法(明治二九年四月八日法律第七一号)の準用河川となり、新河川法(昭和三九年七月一〇日法律第一六七号)施行と同時に、二級河川となつた。

(2) 毛無川は昭和初期ころまで一身田栄町から下流部がかつての条理区画にそつて左右に屈曲した小水路であつたが、昭和初期の志登茂川の改修工事の際、直線化され、河幅も拡大された。しかしながら、本件水害時においても、河幅は狭く、その流下能力も前記のとおり少ないものであつた。

(3) ところで、毛無川には右のとおり右大沢池のほか嘉満池からの水も流入するので、本件水害時には右両池から下流に前記のとおり大量に流入してしまい、右流下能力では疎通しきれず、大沢池から国鉄紀勢本線橋梁までの間で、七月二五日午前三時すぎころから溢水しはじめ、同七時三〇分ころピークとなり同一〇時四五分ころまで溢水した。そして右溢水流の大部分は水田地帯の内水とともに国鉄紀勢本線の線路によつて一時堰止められた後、国鉄の橋梁付近から左右両岸に溢水し、更に南下した部分は勝楽寺北東の踏切(T・P3.12m)から一身田中学校西側の線路(T・P2.9ないし3.0m)といつた低位部にかけて溢水し、一部は毛無川南側の一身田大古曽の市街地を経て、また一部は水田地帯を経て一身田中野及び五六川方面へと流下した。一方、右の堰止められた溢水の一部は国鉄一身田駅の構内暗渠二か所からも一身田市街地の方へ流出した。

(4) また毛無川の国鉄紀勢本線橋梁から下流部分は、前記のとおり流下能力が低いため、上流からの流量、右溢水流及び一身田市街地の降雨によつて、七月二五日未明から午前五時三〇分ころにかけて常盤橋(T・P2.97m)付近は溢水寸前となり、同六時から六時三〇分ころには常盤橋及びその上流の緑橋付近では左右両岸から溢水し、周辺の居住者は浸水被害を受けた。

(5) なお、常盤橋下流の二百石西橋(T・P2.1m)周辺では、常盤橋が溢水した七月二五日午前五時三〇分過ぎころにはすでに左右両岸に溢水し、左岸の溢水流は一身田郵便局(T・P1.8m)付近の栄町方面に流入して行つた。

(6) また一身田大古曽地区市街地については、七月二五日午前五時三〇分ないし同六時ころから毛無川からの溢水が流入して浸水の被害を受けはじめたが、毛無川周辺では右溢水流は更に南東方向に流下して一身田中野地区に流下したため、同日午前中にはおおむね水がひいた。

しかし、なお、同地区においても所によつては長時間浸水被害を受けた者もいる。

(7) 一身田中野地区は、一身田の中でも最も低い地区であり、本件水害時も、国鉄紀勢本線橋梁部の上流及び下流でそれぞれ溢水した毛無川の水及び流域内の内水が流下して長時間にわたる浸水被害を受けた。

(8) なお、前掲各証拠によれば、一身田市街地に排水路が数多くあり(これらはいずれも狭く、しかも排水状態がよくない。)、右排水路は、毛無川に通じているところ、前認定のとおり毛無川は常盤橋付近で七月二五日午前六時から同六時三〇分ころに溢水し、その下流の二百石西橋付近では同五時三〇分過ぎには溢水していたこと、一身田市街地のほぼ中心である高田慈光院南側周辺では同六時ころ排水路が満水となつて道路に溢れていたことからすると、一身田市街地の排水路は七月二五日午前六時ころにはすでに内水等の影響により排水路としての機能を十分果しえない状態になつていたものと認めざるをえず、このため、同日更に続いた降雨及び県道津・関線北側の遊水池からの流出水(樋管を通じるもの及び遮水壁の開口部分からのもの。)を毛無川に流下させることもできなかつたものと認められる。

従つて、七月二五日午前六時ころ以降に一身田市街地に流入した志登茂川の溢水、すなわち、右遊水池の遮水壁からの溢水、志登茂川の溢水のうち高田高校西側から一身田市街地に流入したものについては、これらが流入したときはすでに一身田市街地は自然排水不能の状態であつたと認められる。

4本件水害の主な原因について

(一)  以上の事実によれば、本件水害時に原告ら居住の各地区が浸水し、被害を蒙るに至つた主な原因は、前記志登茂川の溢水及び毛無川からの溢水と認められるが、これを地域別に大別すると、志登茂川の左岸である栗真地区、白塚地区、江戸橋地区、志登茂川の右岸地区のうち、安楽橋以北の大里窪田地区、一身田町の県道津・関線北側地区、県道津・関線と専修寺及び高田慈光院にはさまれた地区、一身田団地地区並びに高田慈光院周辺地区は志登茂川からの溢水が決定的原因となつた地区であり、そして一身田町及び大里窪田町のうち、毛無川左岸で、かつ右以外の地区並びに一身田平野地区は志登茂川及び毛無川からの溢水が競合し、全体としてみて志登茂川からの溢水が主なものであるが、毛無川からの溢水による浸水被害の発生、継続ないし増大についての寄与も無視できない地区である。また、一身田町及び大里窪田町のうち毛無川の右岸にあたる地区、一身田大古曽地区及び一身田中野地区(但し、この地区のうち五六川右岸地区を除く。)についても右同様志登茂川及び毛無川からの溢水が競合している地区であると認められる。すなわち、前記のとおり、志登茂川からの溢水が常盤橋、緑橋及び二百石西橋等において毛無川右岸地区へ流入したことは明らかであり、前記認定の志登茂川及び毛無川からの溢水時期のずれ、毛無川からの溢水状況を考慮しても、別図二に明らかな毛無川の左右両岸及び右各地区の地形、標高等からすれば志登茂川からの溢水の流入が、右各地区にすでに発生していた浸水被害の継続ないし増大について何ら寄与していないとは認めがたく、毛無川からの溢水とあわせ右各地区に居住する原告らの被害の発生、継続ないし増大について寄与しているものと推認するのが相当であり、毛無川及び内水の溢水が決定的要因であつて志登茂川の溢水はこれに寄与しないとする被告らの主張は、その立証が十分でなく採用しえないといわざるをえない。しかしながら、一身田中野地区のうち、五六川右岸地区については、前記の毛無川の溢水状況、地形等からすれば、毛無川からの溢水が水害発生の決定的原因であり志登茂川からの溢水が同地区における浸水被害の発生、すでに発生していた浸水被害の継続ないし増大について寄与したものとは証拠上認めがたいといわざるをえない。

(二)  本件水害時の一身田地区への降雨は、本件水害について、市街地の排水路の整備不良あるいは毛無川の水位の上昇と相まつてその排水を不良にさせ、志登茂川及び毛無川からの溢水流による浸水被害を増加させたものと認められるが、これが決定的要因となつて浸水被害が発生したものと認めることはできない。

(三)  しかして、本件水害が前認定のような形態をとり、一身田地区市街地に大きな浸水被害をもたらしたことには、県道津・関線の建設及び遮水壁の設置、一身田団地の造成、更には昭和三〇年代以降の農地の宅地化等いわゆる都市化現象などが、従前からの水田地帯の遊水機能を低下させる一方、溢水した場合の流路の複雑化をもたらしたことが遠因となつているものと認められる。

(四)  被告らは、本件水害について、志登茂川及び毛無川の溢水は志登茂水系に異常な集中豪雨が降つたためであり、また志登茂川と毛無川及び内水の一身田地区に対する影響の割合も、昭和四九年七月二五日午前七時三〇分以前において1対2.5であり、全体としては1.6対1(1対0.625)であると主張しているのでこれらの点について付言する。

(1) 本件水害時の降雨量については前記三・1のとおりで津地方気象台における日雨量の極値を更新したが一二〇分、一五〇分、一八〇分雨量は第四位、第五位であり、また本件水害時の今井橋付近における高水流量も前記三・1のとおり三〇年確率前後であるから、本件水害時の降雨量が日雨量において気象台開設以来の異常なものであつたとしても、志登茂川における高水流量としては三〇年確率前後であり、これは決して異常ということはできないから、志登茂川の溢水ということからすれば、本件水害時の降雨は本川に三〇年確率前後の高水流量をもたらしたという点で考慮すれば足りるものというべきである(ちなみに本件水害時における洪水到達時間内降雨量についても、到達時間を2.5時間とすると121.0mmであり、これが二〇年に一度の確率であることは当事者間に争いがない。)。従つて被告らの主張がいわゆる不可抗力の抗弁を意味するものであれば、もとよりこれを採用しえないものである。

(2) 被告らの志登茂川と毛無川及び内水の一身田地区に対する影響の割合についての主張は、前記乙第四六及び同第五一号証並びに証人細井正延の証言の結果に基づくものであることは明らかである。そして前記のとおり本件水害時の志登茂川及び毛無川の各溢水流量等について実際に測定した結果がない以上推定によらざるをえないが、右各証拠による計算結果は、前掲水山高幸の証言と対比すると定量的にはこれを全面的に採用しがたいものであるのみならず、後記のとおり割合的認定による責任制限の理論は採用しえないから、この割合を確定することは本件の場合無意味である(ちなみに被告らの全体としての寄与割合についての主張は、その基礎となつた志登茂川外水の溢水量の合計と時間のとり方との間の前後に矛盾がある。)。

四  志登茂川の管理の瑕疵について

1一般に営造物の設置または管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全を欠くことをいうと解されるが、国家賠償法二条にいう瑕疵とは、単に営造物それ自体の性状に欠陥がある場合を意味するにとどまらず、営造物の設置管理者において、当該営造物には他人の生命・身体・財産に対して危害を及ぼすような災害を発生させる危険があり、しかもその災害の発生を通常事前に予測することが可能であり、かつ右管理者においてその発生を未然に防止するために必要な措置を講じえたと認められるにもかかわらず、必要かつ可能な災害防止措置を実施しなかつた場合をも意味するものと解すべきであり、この結果、当該災害が発生したならば管理者は設置・管理の瑕疵による賠償責任を免れないものというべきである。

2ところで、河川を物理的概念として把握するときは、これを自然水流−発生的に自然な水流−及び自然水流の流水の疎通を良くするために築造された人工水流であるとされている。そして、河川がわれわれの社会、経済生活の上において果たしている機能についてみると、かんがい用水、飲料水、工業用水等の供給源であると同時に、雨水、生活廃水、工場廃水等の排水路でもあり、また、一方洪水時には氾濫して大きな災害をもたらすなど社会、経済生活関係にきわめて密接かつ重要な関係を有しており、河川が自然公物としての公共用物に属するとされる所以もここにある。

しかるところ、このような河川の管理に関し、河川法(昭和三九年七月一〇日法律第一六七号・同四〇年四月一日施行)は、一条において河川管理とは、洪水、高潮等による災害発生の防止、河川の適正な利用及び流水の正常な機能の維持を図るため総合的な管理を行うことであることを明らかにし、一六条においては河川管理の一態様としての河川工事に関し工事実施基本計画を定むべきこと、右計画を定めるにあたり降雨量・地形・地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生しているいわゆる水害常襲地域に対する治水対策について特に配慮すべき旨を明らかにしている。そして右基本計画作成の準則として同法施行令一〇条は、洪水、高潮等による災害の発生防止または軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生の状況並びに災害の発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すること、また河川工事の実施の基本となるべき計画に関しては基本高水(洪水防御に関する計画の基本となる洪水をいう。)並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分、主要な地点における計画高水流量、主要な地点における流水の正常な機能を維持するために必要な流量を定めるべきことを規定している。

3そこで、本件の場合について以下災害発生についての予見可能性及び災害防止のため必要な措置を講じえたか否かの点につき検討する。

(一)  予見可能性について

本件水害時における降雨量については前記三・1において認定説示したとおり、日雨量においては別として一二〇分、一五〇分及び一八〇分雨量では第四位、第五位にとどまるもので(前記甲第二六号証の一ないし四によれば、第一位はいずれも一身田地区に浸水被害をもたらしたことに争いのない昭和三四年八月一四日の降雨量であり、また昭和年代に入つてから昭和六年一〇月一三日と、同一九年一〇月七日のそれが本件水害時の場合を上まわつていることが明らかである。)あり、本件溢水地点である今井橋付近のピーク時における推定高水流量がいずれも三〇年確率前後、いわゆる合理式により算定した数値では二〇年確率前後のものであること、そして全体計画における計画水流量が四〇〇m2/s(一〇〇年確率)、暫定計画で三〇〇m2/s(三〇年確率)とされていることからすれば、本件水害時における降雨量、高水流量のいずれについてもかかる現象の発生については、前記河川法が施行された時点においてすでに定性的な予見は十分可能なものであつたということができる。

また、右降雨による洪水の発生と今井橋付近からの溢水及びこれによる一身田地区における水害の発生の点についても前記二・2・(五)及び(六)で認定説示したところからすれば、これまた右同様前記河川法が施行された時点において定性的な予見は十分可能であつたというべきである。

(二)  河川管理者のとるべき措置について

(1) 河川は前示のところから明らかなように、その機能の一つとしてその流域における雨水等を集めてこれを安全に下流に流下させる機能を有しているものであるから、河川管理者としては右機能に欠けるところのないようにこれを管理すべきものであり、従つて前記のように災害の発生について定性的な予見が可能である以上、その当時における科学技術水準により、かかる災害を発生させないだけの耐久性と強度を有する営造物をつくり、かつかかる営造物が本来の機能を発揮できるような管理対策をとるべき法的義務があるものといわなければならない。もつとも前記のとおり、災害の予見が可能であり、従つて災害防止のため適切な管理対策をとるべき義務があるといつても河川及び河川改修工事等治水工事に関しては被告らのいうごとく各種の特質、制約があるから具体的な施策として着手され実現されるまでにある程度の時間を要するものであることは当然の事理であり、従つてそれが合理的理由に基づくものと認められる限り、その間は仮に災害の発生があつたとしても義務違背の違法性は阻却あるいは減殺され、沿岸流域住民においてもこれを受忍すべき場合があるものといわなければならない。

(三)  志登茂川についてとられた措置について

志登茂川の改修の経緯については、前記二・2・(四)・(1)・(2)のとおりであり、このうち被告三重県が関与したものは、同(四)・(2)のとおり昭和三四年度から同三八年度までの伊勢湾等の高潮対策事業の一環としてなされたもののほか、本件瑕疵区間に関する部分については、災害関連事業として同三八年度から同四〇年度にかけて国鉄紀勢本線鉄橋付近から今井井堰までの区間について、同じく同四〇年度から同四三年度にかけて今井井堰から平野井堰までの区間についてなされた各改修事業である。

しかるところ、前記二・2・(一)ないし(三)、同(五)及び(六)において認定した諸事実から明らかなように、志登茂川のうち本件瑕疵区間はもともと高水流量に比して通水能力が今井橋において九三m3/s、今井井堰において五〇m3/sと乏しいうえ、ことに国鉄紀勢本線鉄橋付近から今井井堰付近にかけての区間は、その地形の性状及び右通水能力の点から溢水及び氾濫が生じやすい地域になつており、昭和三四年八月一四日の台風七号による降雨による溢水により一身田町において被害の重さからみて本件以上の重大な浸水被害を発生させたほか、その後においても溢水を繰り返しているという状況下にあつた。ところで、昭和三〇年代の後半以降一身田町を中心とする一身田地区においては、農地の宅地化、人口増といつた都市化傾向が顕著となり、昭和三七年ころには三重県土地開発公社によるいわゆる県営一身田団地が造成建設されるなど志登茂川の沿岸流域の自然的、社会的条件は大きく変化したが、とりわけ右一身田団地の造成は、県道津・関線の存在と相まつて一身田町の地形的特性からみて、たとえば昭和三四年八月一四日の場合のごとき規模の洪水が発生したときは、溢水流の流下方向を妨げ、一身田町市街地の浸水被害を大きくさせるおそれがあることが予見されえたのである。

しかるに、前記各改修事業においては、沿岸流域におけるかかる自然的、社会的条件の変化に全く意を用いることなく(ちなみに県道の管理、農地の宅地への転用、団地の造成建設のいずれにしても河川管理者である県知事は、法制上これに関与しうる地位にある。)、一身田地区一帯が農業地帯であつたときと同様、流下能力をこえる流下流量については、これを両岸に溢水させ、水田地帯に湛水させて水位の低下をまつという治水方式が基本的に採用されたまま何ら改められるところがなかつた。そして前記二・2・(七)で認定したとおり、昭和四六年の二度にわたる浸水被害を経た後、昭和四七年に至り工事全体計画を策定し、これによりはじめて今井橋ほか二点の基準点及び各基準点における計画高水流量が定められ、洪水処理を直接の目的とする河川改修工事がなされることとなつた。

(四)  設置・管理の瑕疵について

前述のところからすれば、現行河川法施行時点において災害発生についての定性的予見が可能であつたにもかかわらず、この点について意を用いることなく、同法施行後に本川についてなされた改修工事も旧態依然たるものであつたというべきであるから、かかる河川管理のあり方は、各水系における沿岸流域の開発に伴い、かつ当時における災害発生の状況に鑑み、水系を一貫した全体計画に基づき治水事業を計画的に推進することを立法目的の一つとし、河川工事等に関し前記のごとく規定した河川法の法意から大きく乖離するものであるといわなければならない。そして前記の工事全体計画及びこれに基づき今日まで実施されてきた各種工事等は同法に則り策定されたものではないとしても、同法の趣旨をふまえたものとしてこれを評価しうるものであるが、右時点に至るまで本川について河川法の法意にそつた災害防止工事が具体的な施策として実施されなかつたことについて、それが合理的な理由に基づくものと認めることができない。

すなわち、前記のとおり河川改修工事等治水工事に関し被告らのいう各種の河川管理上の制約があり、河川管理責任を論ずる場合にこれを違法性阻却事由ないし減殺事由として考慮すべきものであることは当然の事理というべきであるが、しかしながら、国家賠償法二条の国または地方公共団体は民法七一七条における占有者と所有者の地位を併有し、従つて損害の発生について究極的な回避義務を負担する立場にあるものであることからすれば、被告側において、河川法施行後本件水害発生までの間において河川管理者として現実に実施してきた施策以上の対策は右の各種制約のためこれをとることができなかつたとする所以につき、具体的な事実関係との関連においてこれを明らかにすべきものと解するのが相当であるところ、本件の場合、本件全証拠によつても右の点が明らかにされたものということはできない。従つて被告らの免責の主張はこれを採用できない。

そうだとすれば、被告らには災害発生の予見性が存在しかつこれに対応する適切な措置を講じえたと認められるにもかかわらず、かかる措置をとらなかつた点に義務違背が存することとなり、被告らは本川の設置・管理に瑕疵があるものとして国家賠償法に基づく賠償責任を負うものといわなければならない。

4なお、限定責任論については、本件水害の発生について毛無川の溢水等が寄与しているものと認めうることは前記三・3及び4で認定説示したとおりであるが、すでに認定説示したところからすれば、毛無川や水路等の設置・管理について管理者である津市長の設置・管理の瑕疵を認めうるとしても両河川及び水路の地形的・機能的関連性、溢水の時間的、場所的接着性、証人別所喜一郎の証言からも窺知しうる両河川管理の行政的関連性からすれば、原告らのいうごとく行為の客観的関連共同性を認めることができ、共同不法行為が成立するものである以上、被告らはよつて生じた損害の全部につき責任を負うものというべきであるから、限定責任論を採ることはできない。

五  被告らの責任

以上によれば、本件水害当時、志登茂川の設置・管理には瑕疵があり、しかも右瑕疵と本件水害の発生のうち、後記記載の原告らの浸水被害との間に因果関係が認められるから、被告国は国家賠償法二条一項により、同三重県は同法三条一項によりそれぞれ同原告らが本件水害によつて蒙つた後記損害を賠償する責任を負わなければならない。

六  原告らの蒙った損害について

1  本件水害発生との因果関係

原告らの被災事実については、前記一・2において認定したとおりであるが、以上に認定した各事実によれば、本件水害は、前記認定の志登茂川からの溢水が決定的原因となつた地区及び志登茂川と毛無川との溢水が原因として競合した地区においては、河川管理者の志登茂川の設置・管理の瑕疵によつて生じたものであり、その間に因果関係が存在することは明らかである。

しかしながら、一方毛無川からの溢水が決定的原因となつたと認められる地区においては、志登茂川の設置・管理の瑕疵との間の因果関係の存在について証明がないことに帰するから、原告らのうち一身田中野地区で、しかも五六川右岸地区に居住していると認められる(〈証拠略〉)別紙第二原告目録(六)記載の原告らの請求は、その前提を欠き、その余の点について判断するまでもなく失当として棄却を免れない。

2  床下浸水者の請求について

ところで、前記の因果関係を肯認しうる原告らのうち、別紙第二原告目録(七)記載の原告らは床下浸水被害を受けたと認められるが、これらの者については、本件の場合その請求は許されないものというべきである。けだし、まず本件のごとき営造物の設置・管理の瑕疵に基づく責任は、前述のところから明らかなように、いわゆる不作為的不法行為に基づくものであるのに加え、水害の場合の営造物の設置・管理者はその原因となる自然現象の発生自体を完全に制御することはできないにもかかわらず、それによる被害を最小限に防止しなければならない立場にあることを考えれば、前述のとおり予算上、技術上あるいは時間的、社会的な制約の点を無視することはできず、よつて発生した被害の軽重と管理者が実施してきた対策等との関係において、右の各制約事由は義務違反の違法性を阻却ないし減殺する要素として考慮すべきものといわなければならないからである。しかして、床下浸水により原告らが蒙つた損害の性質は、後記認定のとおり財産的損害をも斟酌するが、結局は精神的損害に帰し、慰藉料としてその損害を填補さるべきものであるところ、それが床上浸水の場合に比し、軽度のものというることはもとより、前認定のとおり河川管理者らが講じてきた措置、ことに全体計画の策定と右策定後これに基づき今日まで実施されてきた各種対策には評価すべきものがあること、本件水害時の降雨が日雨量において、津地方気象台開設以来のものであつて、その被害は一身田地区のみならず、津市内はもとより県下の広範囲に及んでいること、一身田地区はもともとT・P一ないし三m程度の低地であるという地形的特質を有していることなどからすると、本件の場合、設置・管理者の義務違反の違法性は大幅に減殺され、いうなれば、本件水害により受けた床下浸水による原告らの精神的損害は、いまだ社会生活上これを受忍すべき限度内にあるというべきであつて、金銭をもつて慰藉すべき程度のものということはできないとすべきである。

従つて、右原告らのうち、床下浸水の被害を受けたにとどまる別紙第二原告目録(七)記載の原告らについては、その請求は失当として棄却すべきものである。

3  法人の請求について

原告らのうち、法人である者については、浸水によつて自然人が受けたのと同じように精神的苦痛を受けたものとはいいがたく、慰藉料とは別個の損害賠償請求をするならば格別、そうでなく精神的苦痛に対する慰藉料としてその損害賠償を求める限り、事柄の性質上(名誉、信用毀損等の場合とは別である。)、後記のとおりそれが財産上の損害を含む趣旨であることを考慮しても、その請求はその根拠を欠くものであるといわざるをえないから、右請求は失当である。

従つて、志登茂川の溢水流によつて被害を受けた原告のうち、法人である別紙第二原告目録(八)記載の原告らについてはその余の点を判断するまでもなく、その請求は失当として棄却すべきものである。

4  包括的一律請求について

原告らが包括請求の前提とする損害の性質論について、当裁判所は直ちにこれに左袒することはできないが、右主張は本件水害による家庭生活侵害の諸事情及び財産上の損害をも斟酌して慰藉料を算定すべきであるということを含んでいると認められ、また床上浸水につき三〇cm以上と三〇cm未満とに区分することは、原告松本慎一郎の本人尋問の結果及び前記甲第一八号各証により理由があると認められるので、かかる意味において原告らの包括的一律請求は、訴訟経済の要請、当事者間の実質的公平、被害の同質性、責任原因の共通性等の諸点を併せ考えると許さるべきものであると解する。

七  損害額

1以下本件水害によつて右六記載以外の原告らが蒙つた精神的苦痛についてその慰藉料額を検討する。

(一)  前掲各本人尋問の結果、甲第一八号各証により認めうる原告らのうち、床上浸水被害を受けた者達が受けた濁水の中での生命、身体に対する危険の念、日常生活上の種々の不便、就寝、食事、排便等の不自由、不便、居住家屋の汚損、退水後の清掃、復旧の困難性、前認定の本件水害の原因、態様、本件水害に至るまでの一身田各地区における浸水の歴史、河川管理者の志登茂川の管理の態様、全体計画の策定と本件水害及び本訴提起後に至るその実施経過、更には弁論の全趣旨によれば原告らの本訴提起の目的の一つは河川災害復旧行政につき責任の所在を明らかにし、その改善を求めるところにもあつたと認められること等諸般の事情を考慮すると

(1) 別紙第二原告目録(一)ないし(四)記載の三〇cm以上の床上浸水被害の原告らに対する慰藉料としては金三〇万円、

(2) 同目録(五)記載の三〇cm未満の床上浸水被害の原告らに対しては金二〇万円とするのが相当である。

(二)  ところで、その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき乙第五〇号証の三の一ないし五、同号証の四によれば、別紙第二原告目録(三)及び(四)記載の原告らは、本件水害当時、一身田町の三重県営住宅に居住していたこと、被告三重県は、同住宅の居住者に対し、本件水害後、台所、廊下等の張替え、襖張替え、建付調整、畳張替え等をそれぞれの被害に応じて、同被告の費用によつて実施したことが認められ、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

そして、本件のような水害後は、右の畳等の張替えはこれを直ちに行うことができず、通常、相当期間にわたつて放置されざるをえないことは明らかであるから、右原告らはこれによつて日常生活により早く復帰できたと推認されることからすると、右は被告らのいうごとく損益相殺の対象とすべきものとは考えられないが、これらの原告については右事情を斟酌し、前記慰藉料額からそれぞれ各一割を減額するのが相当である。従つて前記(一)・(1)のうち目録(三)及び(四)掲記の原告らについての慰藉料は三〇万円から三万円を減じた二七万円となる。

(三)  なお、森マスの請求を不当とする被告らの主張は、原告松本慎一郎本人尋問の結果及び前掲甲第一八号証の一の九、同一の一〇に照らし採用できない。

2弁護士費用

本件訴訟の内容、経過及び認容額その他諸般の事情を考慮すると、右原告らが被告に対して請求しうる弁護士費用の額は、前記1・(一)・(1)の原告らにつき各金五万円、同(2)の原告につき各金三万円と認めるのが相当であるが、右(1)のうち前記目録(二)及び(四)掲記の原告らは一部請求との関係で弁護士費用として三万円を請求するにとどまつているから、右原告らについては三万円の限度でこれを認めるのが相当である。

八  結論

以上によれば、本件原告らのうち、別紙第二原告目録(一)記載の原告らの請求については各金三五万円(慰藉料三〇万円及び弁護士費用五万円)、同目録(二)記載の原告らの請求については各金三三万円(慰藉料三〇万円及び弁護士費用三万円)、同目録(三)記載の原告らの請求については各金三二万円(慰藉料二七万円及び弁護士費用五万円)、同目録(四)記載の原告らの請求については各金三〇万円(慰藉料二七万円及び弁護士費用三万円)、同目録(五)記載の原告らの請求については各金二三万円(慰藉料二〇万円及び弁護士費用三万円)並びにうち同目録(一)、(二)記載の原告らについては各金三〇万円、同目録(三)、(四)記載の原告らについては各金二七万円、同目録(五)記載の原告らについては各金二〇万円に対する本件不法行為時である昭和四九年七月二五日から、うち同目録(一)及び(三)記載の原告らについては各金五万円、同目録(二)及び(四)、(五)記載の原告らについては各金三万円に対する本件判決確定の日の翌日(弁護士費用については支払期についての主張立証がない。)から右各支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、右原告らのうち同目録(二)記載の原告らを除くその余の原告らのその余の請求及び同目録(六)ないし(八)記載の原告らの請求については、いずれも理由がないからこれを棄却することとする。

よつて、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言の申立はその必要がないものと認めこれを却下することとして、主文のとおり判決する。

(上野精 川原誠 秋武憲一)

別紙第一

原告目録(一)

1 津市一身田町三八

一 細川義男

外168番まで一六七名

原告目録(二)

1 津市一身田町三三九の一四 福井設了

外100番まで九九名

原告目録(三)

1 津市一身田町三八〇番地の一 赤塚肆朗

外42番まで四一名

別紙第二

原告目録(一)

(床上三〇cm以上の浸水被害をうけた原告・なお各原告名下の括弧内の数字は別紙第一原告目録(一)ないし(三)の各原告番号である。以下、別紙第二原告目録(二)ないし(八)についても同様。)

細川義男((一)1) 福島芳三((一)2) 松本慎一郎((一)3) 豊田隼男((一)4) 立松敏夫((一)5) 松本孝七((一)7) 森秀雄((一)8) 森マス((一)9) 進藤三((一)10) 中尾きくえ((一)11) 宮崎ちづえ((一)12) 岸田信郎((一)13) 山路とき((一)14) 森川茂一((一)15) 相原菊雄((一)16) 渡上ふみ子((一)17) 萩森健弘((一)18) 箕浦久泰((一)19) 青山豊(一20) 中村ふみへ((一)21) 伊藤正雄((一)23) 中川資郎((一)24) 豊田一隆((一)25) 茂知野松夫((一)26) 清原登貴子((一)27) 上田善三郎((一)28) 中川すみ((一)29) 藤井鈴子((一)30) 中川志ゆう((一)31) 小野貞子((一)33) 鈴木泰((一)34) 岡田せつ((一)35) 西口正一((一)36) 真弓義弘((一)37) 高井昭久((一)38) 今井昌則((一)39) 池上大徹((一)41) 藤井実((一)42) 小倉留助((一)43) 藤井真一((一)44) 岡村光雄((一)47) 安保てる((一)48) 山下喜美子((一)49) 駒田勇三郎((一)50) 森田たづ((一)51) 岡田昭男((一)52) 石谷正光((一)53) 吉村松一((一)54) 岡本敏夫((一)56) 石丸増歳((一)57) 金子裕((一)58) 西山義人((一)59) 西平進((一)60) 田間康夫((一)61) 伊藤由光((一)62) 塩見和子((一)63) 松田武男((一)64) 江川芳郎((一)65) 田辺元一((一)66) 鬼頭きよ((一)67) 門脇一男((一)68) 上村進((一)69) 丹羽美代子((一)70) 森川絹子((一)71) 真川敏生((一)72) 園田和夫((一)73) 松浦弘之((一)74) 豊田久男((一)75) 相原宣治((一)76) 後久修一((一)77) 松岡昭((一)78) 斉藤実((一)79) 豊田正一((一)80) 小川吉郎((一)81) 宇田昌義((一)82) 小川恒三((一)83) 萩原幸一((一)84) 井上貞二((一)85) 久野重正((一)86) 井上春江((一)87) 長谷川こう((一)88) 伊藤文吾((一)89) 阪倉シゲ子((一)90) 笠井金郷((一)91) 松田克美((一)92) 辻岡満子((一)93) 川本隆((一)94) 長谷川忠太郎((一)95) 平松重一((一)96) 北出務((一)97) 出口初志((一)98) 北村ヨシ子((一)99) 練木謙三((一)100) 坂本研三((一)101) 坂本武俊((一)102) 草深昭雄((一)103) 木村恭子((一)104) 川北健治((一)105) 大河内正英((一)106) 松本誠一((一)107) 諸角勝次((一)108) 中川清((一)109) 田村順雄((一)110) 園田隆章((一)111) 篠木信一((一)112) 中条乙吉((一)114) 田中四郎((一)115) 石井三義((一)116) 小亀映二((一)117) 内田義夫((一)119) 吉田佐市((一)120) 山辺美代子((一)121) 辻浩哉((一)122) 今西忠((一)123) 橋爪芳治((一)124) 吉田絢子((一)125) 平子康生((一)126) 金子青史((一)127) 淡路豊((一)128) 駒田幸雄((一)129) 岡本庄三郎((一)131) 磯崎久次郎((一)132) 向井永((一)133) 井ノ口健也((一)134)田岡生吾((一)135) 瀬川なかえ((一)136) 別所克美((一)137) 藤田明((一)138) 奥村操((一)144) 岡徳男((一)145) 道清寛((一)147) 波多野明((一)148) 小林壽((一)152) 浦上忠男((一)153) 川上兵二((一)154) 安井勇((一)155) 佐脇栄一((一)156) 坂倉勝之((一)159) 小林久((一)160) 今井治((一)161) 奥村進((一)162) 前川守((一)163) 松原弘((一)164) 中村安彦((一)166)安川徹((一)167) 敷田敬一((一)168) 家木愃((二)5) 佐野ヨシ子((二)10) 田中よね((二)12) 林千代((二)13) 後藤勝吉((二)14) 橋本正信((二)16) 森本延雄((二)17) 村田幸((二)18) 小菅つね((二)22) 西山婦じ((二)23) 神田与三松((二)24) 森川正年((二)25) 川北勇((二)26) 星野明子((二)27) 田中畏兵衛((二)28) 諸角善治((二)29) 下津秀子((二)32) 小林利雄((二)38) 森橋政一((二)42) 稲葉晴三((二)43) 伊野くみ子((二)44) 森みよ子((二)47) 濱口忠雄((二)48) 内田正一((二)50) 鬼頭美津子((二)51) 西田久信((二)53) 海住志ずえ((二)54) 川西助七((二)55) 堀田実((二)57) 落合直子((二)60) 中川彰((二)61) 木場定雄((二)65) 東川香代子((二)75) 橋爪善昭((二)83) 佐々木兵一((二)84) 太田正子((二)85) 小田スエノ((二)90) 川北方人((二)95) 田中堯((二)98)

原告目録(二)

(床上三〇cm以上の浸水被害をうけたが一部請求として別紙第一原告目録(三)記載の原告らと同額の請求をした原告)

今橋一((三)16) 草深和子((三)41) 市川巽((三)42)

原告目録(三)

(県営住宅に居住し前記目録(一)と同じ被害をうけた原告)

川村義清((一)139) 真弓千代((一)140) 前田好典((一)141) 柴田弘之((一)142) 木村泉((一)143) 木下喜代子((一)165)杉野猛((二)77) 西村克志((二)78) 甲田裕明((二)79) 中川直保((二)80)

原告目録(四)

(県営住宅に居住し、前記目録(二)の原告と同様一部請求をした原告)

草深良徳((三)9) 五十右勇((三)29)

原告目録(五)

(床上三〇cm未満の浸水被害をうけた原告)

笠井淳一((一)32) 今井一郎((一)45) 門脇孝一((一)113) 三崎欣一((一)118) 手塚正義((一)130) 高須しづえ((一)146) 福井設了((二)1) 瀬川和三郎((二)2) 細川隆((二)3) 西崎敬治郎((二)4) 増村良雄((二)6) 江藤利和((二)7) 草深良男((二)8) 山尾謙三((二)9) 田中享((二)11) 長嶋正孝((二)15) 橋爪次男((二)20) 長谷部千代((二)21) 諸角治((二)30) 渡辺準一((二)31) 下津和文((二)33) 本多知行((二)34) 草深清三((二)35) 後藤林弘((二)36) 島川マサ((二)37) 菊永とく((二)37) 藤井貞治((二)40) 荒木史朗((二)41) 西順子((二)45) 中久木和也((二)46) 磯田隆治((二)52) 松本誠次((二)56) 日置文雄((二)58) 岡田義晃((二)59) 肥後まさ((二)62) 諸角昌吾((二)63) 橋爪伸夫((二)64) 植田孝市((二)66) 米井シゲノ((二)67) 牛田宗一((二)68) 岡野修((二)69) 梶誠一((二)70) 中井美代子((二)71) 若山よし子((二)72) 西井冨士子((二)73) 加藤綾子((二)74) 吉住文成((二)76) 寺本駒次郎((二)81) 中尾清治((二)82) 西口孝雄((二)86) 落合民生((二)88) 川北アサコ((二)89) 落合幸司((二)91) 中井虎雄((二)92) 川口倫子((二)93) 並木松五郎((二)94) 崎フミ((二)96) 向井一之((二)97) 丹羽義雄((二)99) 渡邊浩司((二)100) 草深悦幸((三)13) 笠井たつえ((三)20) 山口美枝((三)34) 川北正一((三)36)

原告目録(六)

(五六川右岸地区に居住していた原告)山本一美((一)149)

株式会社松沢製作所 代表者代表取締役 松沢善一((一)150)

ミエハク工業株式会社代表者代表取締役 小林三郎((一)151) 松沢信夫((二)87)

原告目録(七)

(床下浸水の被害をうけた原告)

宮路忠己((一)22) 赤塚肆朗((三)1) 山田かづ((三)2) 神田吉男((三)3) 森川治男((三)4) 井ノ口二郎((三)7) 藤本とも((三)8) 田中一恵((三)10) 戸田雅之((三)11) 小林敬直((三)12) 中野君子((三)14) 小菅正夫((三)17) 木村市太郎((三)18) 戸澤正一((三)19) 野田千代子((三)21) 田中好((三)22) 野田和伸((三)23) 松本きぬ((三)24) 伊藤アキ子((三)25) 大森やすの((三)26) 堀田武夫((三)27) 森川英男((三)28) 上杉泰郎((三)30) 清水久子((三)31) 大西理一((三)32) 伊藤頼一((三)33) 福田勝二((三)35) 古郡規久重((三)37) 石井求((三)38) 林哲夫((三)39) 小林武郎((三)40)

原告目録(八)

(法人である原告)

株式会社松本商店 代表者代表取締役

松本孝太郎((一)6)

下津醤油株式会社 右同

下津和文((一)40)

有限会社乙部石油店 右同

乙部伊エ門((一)46)

美松商事株式会社 右同

岡本敏夫((一)55)

株式会社三重フジカラー現像所 右同 巣山一子((一)157)

建友商事有限会社 右同

丹羽勇((一)158)

有限会社平野屋青木油店 右同

青木みさを((二)19)

有限会社ほそかわ 右同

細川薫((二)49)

有限会社ぜにやセンター 右同

濱野一雄((三)5)

ぜにや食品株式会社 右同

濱野一雄((三)6)

一御田神社 代表者代表役員

大原譲((三)15)

別紙

《浸水位及び浸水時間一覧表》

凡例

(一) 目録の表示及び番号:別紙第一原告目録と同じ

(二) 氏名:原告氏名

(三) 浸水の状況:津市長作成の証明書(甲第一三号証)に基づく浸水位を示し、括弧中は損害明細書(甲第一八号証)に基づく浸水位を示す。但し床上欄の数字はいずれも床から計つた浸水位(床高を含まない)であり、床下欄の数字はいずれも地面から計つた浸水位である。

(四) 浸水時間:損害明細書(甲第一八号証)に基づく浸水時間を示す(床上の時間は床下の時間に含まれる。)。

(五) 備考欄の「目録(二)へ」:請求の減縮をした原告である。

(六) 備考欄の「一部請求」:本来なら床上三〇センチメートル以上あるいは床上三〇センチメートル未満で請求すべきところ、一部内金の請求をなしたもの

目録

(一)

番号

氏名

浸水の状況

浸水時間(h)

備考

床上(cm)

床下(cm)

床上

床下

1

細川義男

六〇(六〇)

一六

2

福島芳三

一〇〇(一〇〇)

3

松本慎一郎

六〇(六〇)

一九

4

豊田隼男

六〇(七五)

一〇

5

立松敏夫

六〇(六〇)

二四

6

株式会社松本商店

代表者代表取締役

松本孝太郎

六〇(六〇)

一九

7

松本孝七

八〇(九〇)

一〇

四八

8

森秀雄

一〇〇(一〇〇)

一二

9

森マス

一〇〇(一〇〇)

一六

10

進藤三

五〇(五〇)

一二

二四

11

中尾きくえ

五〇(五〇)

一〇

一八

12

宮崎ちづえ

一〇〇(一〇〇)

一五

13

岸田信郎

八〇(八〇)

一二

14

山路とき

四〇(三〇)

一〇

15

森川茂一

六〇(六〇)

一〇

16

相原菊雄

五〇(五〇)

一〇

二四

17

渡上ふみ子

三〇(三〇)

18

萩森健弘

一〇〇(一〇〇)

一二

19

箕浦久泰

九〇(一〇〇)

一五

20

青山豊

八〇(八〇)

一二

21

中村ふみへ

一〇〇(八〇)

一〇

二〇

22

宮路忠己

(五)

目録(二)へ

23

伊藤正雄

四〇(四〇)

24

中川資郎

六〇(六〇)

25

豊田一隆

五〇(五〇)

一九

26

茂知野松夫

六〇

27

清原登貴子

六〇(六〇)

28

上田善三郎

四五(四五)

29

中川すみ

四〇(六〇)

一六

30

藤井鈴子

六〇(六〇)

一〇

31

中川志ゆう

一〇〇(一〇〇)

32

笠井淳一

五(五〇)

一〇

33

小野貞子

三〇(三〇)

一八

34

鈴木泰

七五(七五)

一二

35

岡田せつ

七〇(七〇)

一二

36

西口正一

六〇(六〇)

37

真弓義弘

四〇(四〇)

38

高井昭久

一〇〇(一〇〇)

39

今井昌則

六〇(六〇)

40

下津醤油株式会社

代表者代表取締役

下津和文

一五(一五)

一〇

二〇

41

池上大徹

七〇(七〇)

一一

42

藤井実

五〇(五〇)

一〇

二四

43

小倉留助

五〇(五〇)

一九

44

藤井真一

六五(六五)

一〇

45

今井一郎

二〇(三〇)

46

有限会社乙部石油店

代表者代表取締役

乙部伊エ門

六〇(六〇)

一〇

47

岡村光雄

五〇(五〇)

一九

48

安保てる

九〇(九〇)

一〇

49

山下喜美子

六〇(六〇)

一九

50

駒田勇三郎

五〇(五〇)

一〇

二〇

51

森田たづ

八〇(八〇)

52

岡田昭男

七〇(一〇〇)

53

石谷正光

五〇(五〇)

一九

54

吉村松一

五〇(四五)

一〇

一二

55

美松商事株式会社

代表者代表取締役

岡本敏夫

五〇(五〇)

56

岡本敏夫

五〇(五〇)

57

石丸モータースこと

石丸増歳

五〇(一〇〇)

一〇

58

金子裕

六〇(六五)

59

西山義人

三〇(四〇)

60

西平進

五八(五八)

61

田間康夫

七〇(七〇)

一〇

一二

62

伊藤由光

八四(八四)

63

塩見和子

三三(三三)

64

松田武男

八二(八二)

一三

65

江川芳郎

四七(四七)

66

田辺元一

八〇(八〇)

67

鬼頭きよ

一〇五(一〇五)

一四

一五

68

門脇一男

七三(七三)

一〇

69

上村進

七四(七四)

一四

一五

70

丹羽美代子

五七(五七)

一〇

71

森川絹子

五〇(五〇)

72

真川敏生

五二、五(五二、五)

73

園田和夫

八七(八七)

一二

74

松浦弘之

五七(五七)

一〇

75

豊田久男

九九(九九)

76

相原宣治

六五(六五)

一〇

77

後久修一

六八(六八)

一〇

78

松岡昭

一一五(一一五)

一二

二四

79

斉藤実

九一(九一)

80

豊田正一

四五、五(四五、五)

一一

81

小川吉郎

一〇七(一〇七)

一〇

82

宇田昌義

六三(六三)

83

小川恒三

七四(七四)

84

萩原幸一

一二〇(一二〇)

二四

三〇

85

井上貞二

一一〇(一一〇)

一三

86

久野重正

一〇二(一〇二)

一二

二四

87

井上春江

一一六(一二〇)

二〇

88

長谷川こう

六〇(六〇)

89

伊藤文吾

三三(三三)

一〇

90

阪倉シゲ子

八三(八三)

91

笠井金郷

五〇(五〇)

一〇

92

松田克美

八四(八四)

一五

93

辻岡満子

一一五(一一五)

二〇

94

川本隆

五五(五五)

95

長谷川忠太郎

三六(三六)

一〇

96

平松重一

三八(三八)

97

北出務

四五(四五)

99

北村ヨシ子

五三(五三)

一〇

100

棟木謙三

三五(三五)

101

坂本研三

五別棟五五(五五)

102

坂本武俊

三四(四五)

一〇

103

草深昭雄

六〇(六〇)

104

木村恭子

三四(三四)

105

川北健治

四〇(四〇)

106

大河内正英

七三(七三)

一五

三〇

107

松本誠一

四八(四八)

一〇

108

諸角勝次

五〇(五〇)

109

中川清

三〇(三〇)

二四

110

田村順雄

六〇(六〇)

二四

111

園田隆章

五〇(五〇)

一〇

一八

112

篠木信一

四〇(四〇)

一〇

113

門脇孝一

一〇(一五)

114

中条乙吉

五〇

115

田中四郎

三五(三五)

一〇

一五

116

石井三義

四〇(四〇)

一〇

一五

117

小亀映二

四〇(四〇)

二〇

二四

118

三崎欣一

一〇(一〇)

119

内田義夫

六二、五(六二、五)

一〇

120

吉田佐市

六〇(六〇)

一一

121

山辺美代子

四五~五〇

(四五~五〇)

122

辻浩哉

三〇~四〇(四〇)

123

今西忠

三〇(三〇)

一九

124

橋爪芳治

五〇(五〇)

125

吉田絢子

四〇(四〇)

126

平子康生

四〇~五〇(五〇)

127

金子青史

五〇(五〇)

一九

128

淡路豊

四〇(四〇)

129

駒田幸雄

五〇(五〇)

一九

130

手塚正義

二〇(二五)

四〇分

目録(二)へ

131

岡本庄三郎

五〇~七〇

(五〇~七〇)

五〇分

二、五

132

磯崎久次郎

五〇(六〇)

四〇分

133

向井永

四〇(四〇)

四〇分

134

井ノ口健也

五〇(五〇)

二四

135

田岡生吾

三〇(三〇)

〇、七

二、七

136

瀬川なかえ

三〇~五〇(五〇)

四〇分

137

別所克美

五〇(三〇)

四〇分

138

藤田明

五〇(五〇)

四〇分

139

川村義満

五〇(五〇)

140

真弓千代

五〇(五五)

141

前田好典

五〇(五〇)

一、五

142

柴田弘之

四〇

143

木村泉

四〇(四〇)

144

奥村操

五五(五五)

一四

一五

145

岡徳男

五〇(五〇)

二〇

三〇

146

高須しづえ

床すれすれ

(二、三)

目録(ニ)へ

147

道清寛

五五(五五)

一四

148

波多野明

六〇(六〇)

一二

二四

149

山本一美

五五(五五)

一二

150

株式会社松沢製作所

代表者代表取締役

松沢善一

三〇(三〇)

一六

151

ミエハク工業株式会社

代表者代表取締役

小林三郎

六五(六五)

一五

152

小林壽

三八(三八)

153

浦上忠男

六五(六五)

154

川上兵二

四〇(四〇)

一二

一三

155

安井勇

四〇(四〇)

156

佐脇栄一

三五(三五)

157

株式会社三重フジカラー現像所

代表者代表取締役

巣山一子

一〇一(一〇一)

一四

158

建友商事株式会社

代表者代表取締役

丹羽勇

一〇〇

159

坂倉勝之

七〇(七〇)

一八

160

小林久

五〇(五〇)

一八

三六

161

今井治

四二(四二)

一六

三六

162

奥村進

五二(五二)

一八

三六

163

前川守

四〇(四〇)

一二

三六

164

松原弘

三〇(三〇)

一一

三六

165

木下喜代子

五〇(五〇)

一、五

166

中村安彦

一二〇(一二〇)

一三

167

安川徹

六〇(六〇)

一一

168

敷田敬一

九三(九三)

一五

目録

(二)

番号

氏名

浸水の状況

浸水時間(h)

備考

床上(cm)

床下(cm)

床上

床下

1

福井毅了

二〇(二〇)

七、五

2

瀬川和三郎

一二(三三)

一九

3

細川隆

一〇(一〇)

4

西崎敬治郎

三(三)

一〇

5

家木愃

三〇(三〇)

一〇

一五

一部請求

6

増村良雄

二〇(二〇)

一〇

7

江藤利和

一〇(二〇)

一〇

8

草深良男

五〇(五)

9

山尾謙三

二〇(二〇)

10

佐野ヨシ子

五〇(八〇)

一二

一部請求

11

田中亨

一〇(一〇)

12

田中よね

四〇(四〇)

一九

一部請求

13

林千代

五〇(五〇)

一部請求

14

後藤勝吉

三〇(三〇)

一部請求

15

長嶋正孝

二〇(二〇)

16

橋本正信

三〇(三〇)

一部請求

17

森本延雄

三〇(三〇)

一四

一部請求

18

村田幸

六〇

一部請求

19

有限会社平野屋青木油店

代表者代表取締役

青木みさを

四〇(三〇)

一部請求

20

橋爪次男

二五(二五)

21

長谷部千代

五(五)

五〇分

22

小菅つね

一〇八(一〇八)

一部請求

23

西山婦じ

三〇(三〇)

一部請求

24

神田与三松

四五(四五)

一〇

一部請求

25

森川正年

四二(四二)

一二

一部請求

26

川北勇

三〇(三〇)

一部請求

27

星野明子

三〇(三〇)

一部請求

28

田中畏兵衛

三〇(三〇)

三〇分

一部請求

29

諸角善治

三〇(三〇)

一部請求

30

諸角治

二六(二五)

31

渡辺準一

二〇(二〇)

一〇

32

下津秀子

四三(四三)

二四

一部請求

33

下津和文

一五(一五)

一五

34

本多知行

四(五)

三〇分

35

草深清三

一三(一三)

一〇

36

後藤林弘

三(三)

37

島川マサ

一〇(二〇)

一〇

38

小林利雄

三一(三五)

二四

一部請求

39

菊永とく

五(〇、五)

40

藤井貞治

一〇(一三)

41

荒木史朗

五(五)

42

森橋政一

三〇(三二)

一部請求

43

稲葉晴三

三〇(三〇)

一〇

一部請求

44

伊野くみ子

三〇(三〇)

一部請求

45

西順子

一五(一五)

46

中久木和也

二〇(二〇)

47

森みよ子

三〇(三〇)

一部請求

48

濱口忠雄

三〇(三〇)

一部請求

49

有限会社ほそかわ

代表者代表取締役

細川薫

六〇(二〇)

(但し宅地面より上)

50

内田正一

四〇(四〇)

一部請求

51

鬼頭美津子

三〇(三〇~四〇)

一〇

一部請求

52

磯田隆治

二五

53

西田久信

四〇(四〇)

一部請求

54

海住志ずえ

三〇(三〇)

一九

一部請求

55

川西助七

三〇(三〇)

一部請求

56

松本誠次

一五(三〇)

57

堀田実

四〇(三〇)

一部請求

58

日置文雄

二五(二五)

59

岡田義晃

五(五)

60

落合直子

五〇(五〇)

一部請求

61

中川彰

五〇(五〇)

一部請求

62

肥後まさ

二〇(二〇)

一九

63

諸角昌吾

二(二)

64

橋爪伸夫

六〇(二〇)

(但し宅地面より上)

65

木場定雄

五〇(三〇)

一九

一部請求

66

植田孝市

一〇(一〇)

四〇分

67

米井シゲノ

一〇(二〇)

四〇分

68

牛田宗一

二〇

69

岡野修

二五(二〇)

四〇分

70

梶誠一

二(五)

四〇分

71

中井美代子

一五(一五)

72

若山よし子

一〇(二〇)

四〇分

73

西井冨士子

一五(一五)

四〇分

74

加藤綾子

一〇(一〇)

四〇分

75

東川香代子

五〇(二〇~五〇)

四〇分

一部請求

76

吉住文成

一〇(二〇)

三〇分

77

杉野猛

三〇(三〇)

一部請求

78

西村克志

三〇(三〇)

一部請求

79

甲田裕明

三〇(三〇)

一部請求

80

中川直保

五〇(五〇)

一部請求

81

寺本駒次郎

二五(二五)

一二

82

中尾清治

一〇(一〇)

三〇

83

橋爪善昭

四〇(四〇)

二四

一部請求

84

佐々木兵一

五〇(五〇)

一一

二四

一部請求

85

太田正子

八〇(八〇)

一二

二四

一部請求

86

西口孝雄

二〇(二〇)

一〇

二〇

87

松沢信夫

二〇(二〇)

一五

88

落合民生

六(六)

一〇

89

川北アサコ

二五(二五)

一二

一三

90

小田スエノ

四〇(四〇)

一部請求

91

落合幸司

二八(二八)

三〇分

92

中井虎雄

二二(二二)

93

川口倫子

二七(二七)

94

並木松五郎

二五(二五)

一〇

三六

95

川北方人

三〇(三〇)

一一

三六

一部請求

96

崎フミ

二〇(二〇)

97

向井一之

二〇(二〇)

四〇分

98

田中尭

四〇(四〇)

一部請求

99

丹羽義雄

一五

100

渡邊浩司

二〇(二〇)

二~三

目録

(三)

番号

氏名

浸水の状況

浸水時間(h)

備考

床上(cm)

床下(cm)

床上

床下

1

赤塚肆朗

床下(五〇)

一〇

2

山田かづ

床下(三二)

3

神田吉男

床下(四〇)

一〇

4

森川治男

床下(六〇)

一〇

5

有限会社ぜにやセンター

(スーパーぜにや)

代表者代表取締

役濱野一雄

一〇〇

(但し宅地面より上)

(一〇〇)

6

ぜにや食品株式会社

代表者代表取締役

濱野一雄

一〇〇

(但し宅地面より上)

(一〇〇)

7

井ノ口二郎

床下(床スレスレ)

8

藤本とも

床下(四〇)

三、五

9

草深良徳

五〇(五〇)

一〇

一部請求

10

田中一恵

(物置五〇)

床下(七〇)

一部請求

11

戸田雅之

床下

三、五

12

小林敬直

床下(二〇)

13

草深悦幸

二五(三〇)

二〇

二四

一部請求

14

中野君子

床下

15

一御田神社

代表者代表委員

大原譲

六〇(六〇)

一五

一部請求

16

今橋一

五四(五四)

五〇分

一部請求

17

小菅正夫

床下(四〇)

18

木村市太郎

床下(二〇)

19

戸澤正一

床下(三〇)

20

笠井たつえ

一〇

一部請求

21

野田千代子

床下

22

田中好

床下(四五)

23

野田和伸

床下

24

松本きぬ

床下(三〇)

25

伊藤アキ子

床下(三〇)

26

大森やすの

床下(三五)

27

堀田武夫

床下(三五)

28

森川英男

床下

29

五十右勇

一部請求

30

上杉泰郎

床下(三〇)

31

清水久子

床下(九)

32

大西理一

床下

33

伊藤頼一

床下(床スレスレ)

34

山口美枝

二五(二五)

一部請求

35

福田勝二

床下(床スレスレ)

36

川北正一

八(八)

一部請求

37

古郡規久重

床下

38

石井求

床下

39

林哲夫

床下(四〇)

40

小林武郎

床下(三五)

41

草深和子

三〇(三〇)

一五

一部請求

42

市川巽

三〇(三〇)

一〇

二四

一部請求

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